第二章 灰の指先
翌朝、悠真は三號炉の前で立ち尽くした。
「点検中・使用禁止」の黄色い札が南京錠と共に扉の取っ手にぶら下がっている。錆びた鉄の扉の表面に白い粉が吹いていた。灰ではない。霜だ。夜の間に炉が冷え、金属の表面に結露した水分が朝の冷気に凍ったもの。
手袋をはめず扉に触れた。鉄の冷たさが掌の骨まで沁みた。炉の中で鴨志田慈雨の喉仏がまだ呼吸をしている。四百度の闇の中で金属管を震わせ子供の声の残響を立ち上らせている。
「灰谷さん」
事務所の窓から若い女事務員が声をかけた。
「警察から昨日の身元不明の老人の遺品が届きました。スケッチブックです。受け取ってください」
振り返らなかった。手袋の指先で扉の霜を削ぎ落とした。白い結晶が指の紋に填まる。
「灰谷さん」
もう一度声がした。やっと振り返った。女事務員は窓のガラスの向こうで白いマスクをつけた顔を曇らせていた。
「スケッチブックは事務所のロッカーに入れておきました。鍵はいつものです」
頷いた。頷いただけだった。女事務員はもう何も言わなかった。三號炉の「点検中」の札を見て眉を曇らせたが口には出さなかった。
昼休み、悠真はロッカーを開けた。
中に茶色い紙袋があった。中身はA4サイズのスケッチブック。表紙はセル画用のアクリル絵具で黒く塗りつぶされていた。背表紙の接着剤が熱で溶けてページの端に垂れている。
スケッチブックを取り出した。重い。紙の重さではない。何かがページの間に挟まっている重さだ。
表紙を開いた。
最初のページには火のエフェクトのラフ画があった。炎の芯が黒い輪郭線は2B鉛筆で力強く何度も同じ線を重ねている。炎の舌が上に上に這い上がろうとしている。しかし炎の中心で何かが燃えている。
子供の顔だった。
七つの顔が炎の中で笑っていた。目は丸い。口は開いている。歌っている形だ。ポコポコパンダの七人の子供たちの顔だった。しかし顔の輪郭線は炎の輪郭線と同じ線で描かれている。子供の顔が炎になっている。炎が子供の顔になっている。
ページをめくった。
二ページ目。三ページ目。四ページ目。すべて同じだ。火のエフェクトのラフ画。しかしどのページにも炎の中心に子供の顔がある。七人の子供。しかし一枚だけ八枚目の顔がある。
八枚目の顔は大人だった。
鴨志田慈雨の顔だった。老人の顔が炎の中心で笑っていた。口は開いている。歌っている形だ。しかし目は開いてない。閉じている。瞼が炎の舌に焼かれている。
悠真はスケッチブックを閉じた。
閉じた瞬間ページの間から何かが落ちた。
小さな黒い塊だった。
拾った。指先で表面を擦る。煤けた硬い質感。セル画の切れ端だ。三センチ四方の透明なセロハンの上に黒い線で何かが描かれている。
拡大して見た。
喉仏だった。
第二頸椎。しかしこの喉仏は炎の中にある。骨の表面に炎のエフェクトの線が重なっている。喉仏が燃えている。いや喉仏が歌っている。
悠真はセロハンの切れ端を作業服のポケットに入れた。
夜になった。
喫煙所に響子が立っていた。
白いコートの背中が霧の中で溶けかけていた。
悠真は壁に寄りかかりタバコに火をつけた。火はオレンジ色だった。
「百十八」
響子が背中を向けたまま言った。
「……何が」
「あなたの心臓。ここまで聞こえる」
響子はこちらを見なかった。
「あの歌も、それくらいの速さだった」
悠真は煙を吐いた。煙が霧と混ざった。何か言おうとして、舌が上顎に貼りついた。業務の言葉しか、十年、動かしていない舌だった。
「見たんでしょう。スケッチブック」
頷いた。頷いただけだった。
「八枚目の顔が、あんただった」
タバコの火先は震えていなかった。震えているのは指のほうだった。
響子が振り返った。目は濡れていた。
「来て」
それだけ言って、響子は霧の中へ歩き出した。白い背中はすぐに滲んで見えなくなった。
悠真はタバコを地面に落とした。火先がコンクリートの上で微かに散った。足を動かした。
国道沿いの路地を三つ曲がった。
古いアパートだった。鉄の階段が外に這い上がっている。響子は階段を上がった。二階の一番端の部屋。扉は鉄だった。銀色の無機質な鉄の扉。ノブには電子ロックがついている。
響子がカードキーをかざした。ロックがカチリと鳴った。
扉が開いた。
重い空気が部屋の中から溢れ出した。埃の匂いではない。電子機器の冷却ファンの匂い。プラスチックと金属と酸化した銀の匂い。
四畳半だった。壁は黒い吸音材ですべて覆われている。床は黒いカーペット。天井も黒い。部屋の真ん中に一枚の机。机の上に波形編集ソフトが映し出された青白いモニター。二つのスピーカー。そしてMDデッキ。
響子が扉を閉めた。
閉じた瞬間、世界が消えた。
外の音がすべて消えた。国道のトラックの音。風の音。自分の心臓の音。すべてが吸音材に吸い込まれた。ただ耳鳴りだけが残った。高い連続した甲高い耳鳴り。
「座って」
机の前の椅子を指さされた。座った。椅子は金属の脚に黒いビニールの座面。冷たい。
響子は机の前に立ったまま、掌を上に向けて差し出した。
意味が分かるまで少しかかった。悠真はポケットからMDを出し、その掌に載せた。銀色の円盤が青白い光を反射した。
響子はMDをデッキにセットした。手つきは慣れていた。慣れすぎていた。
「聴いて」
再生ボタンが押された。
最初はノイズだった。
シューという白い音。そして遠くで誰かが咳払いをする。スタジオの空気の音。
「じゃあ最終シーンいきます」
若い男の声。音響監督。桐生誠一。
「灰谷先生、子供たちに歌ってください」
十年前の悠真の声がスピーカーから流れ出した。
「――らん、らん、ポコポコ」
声が震えていた。若い。力強い。しかしどこか熱に浮かされたような声。
「――ひのこの なかで わらいましょう」
子供たちの声が重なる。
七人の子供。甲高い。澄んだ。どの声も同じリズムで同じ音程で歌っている。機械的な正確さ。
「――ほねになるまで」
悠真の指が動いた。
停止ボタンを押していた。
音が切れた。耳鳴りだけが戻ってきた。
響子は何も言わなかった。責めるでも促すでもなく、ただ黙ってトラックを送り、もう一度再生ボタンに指を置いた。
ガラスの割れる音。
パキンと硬質な音。七人の子供が一斉にマイクから離れる気配。足音。走り出す足音。扉が開く音。
「待て、どこへ行く」
桐生誠一の声。焦っていた。
「火の精霊が、呼んでる」
子供の声。扉の向こうから。
足音が遠ざかる。風の音。砂利を踏む音。遠くでトラックが通り過ぎる。誠一が走っている。
「灰谷先生――」
続きはなかった。息だけが入った。
そして、静かな声がした。
「録音を止めるな」
「声は死なない」
ぷつり、と音が消えた。
ノイズだけが残った。
白い音。長い。悠真は待った。何分も待った。ノイズは続いた。何も起きなかった。
いや、何かが混じっている気がした。ノイズの底に。息継ぎの音のようなもの。歌の間奏の短い吸気。そうだと思えば、そう聞こえた。そうではないと思えば、ただの白い音だった。
響子が停止ボタンを押した。
理由は言わなかった。
スピーカーの前で、響子が言った。
「父の遺書は、一文字だった。声、って」
響子がヘッドホンを外した。外す時、指が一瞬、耳の縁に触れた。確かめるように。
「八百度で焼いたら、何が消えると思う?」
悠真は答えなかった。舌が上顎に貼りついていた。
「骨は白くなる。全部、灰になる」
響子は静かに言った。
「声も」
沈黙があった。吸音材が沈黙を吸った。
「四百度なら、まだ残るかもしれない」
かもしれない、と響子は言った。確信ではなかった。賭けだった。
響子はそれ以上、何も言わなかった。
MDがデッキから吐き出された。響子はそれを取り、悠真の掌に置いた。冷たい。氷みたいに冷たい。
悠真は立ち上がった。膝が震えていた。掌が汗で濡れていた。
扉に向かった。
鉄の扉を開けた。外の空気が部屋の中に流れ込んだ。国道のトラックの音。風の音。遠くで犬が吠えている。
「悠真さん」
背後で響子が言った。
「あんたの書いた火の精霊は、本物だった」
悠真は振り返らなかった。
扉を閉めた。
鉄の階段を下りた。国道沿いの路地を歩いた。霧はまだ出ていた。駐車場の白線は見えない。
手をポケットに入れた。
鍵とMDとセロハンの切れ端が、掌の中で触れ合った。
鍵が、重かった。




