第一章 喉仏の歌
朝の点火作業は、指先から始まる。
灰谷悠真は作業靴の爪先で炉前の鉄格子の縁を叩いた。錆びた金属が底の抜けた鐘みたいに低く鳴った。六時十五分。静寂苑の裏庭には夜の色が薄く張り付いている。十一月の空気は重油の匂いと混ざって肺の奥まで沈む。
手袋をはめた。黒い綿手袋の指先にはいつもと同じ白い粉がにじんでいた。石鹸でいくら擦っても落ちない。人の骨の粉だ。昨夜の最終炉で拾い上げた名もない行旅死亡人の骨が爪の間に食い込んだままだった。
手袋を外す。素手で燃料供給のレバーを握る。金属の冷たさが掌の線に沿って沁みた。重油のタンクがどこか遠くでうなりを上げる。一號炉の点火装置を回す。青白い火花が暗い燃焼室の中で一瞬だけ目を覚ました。火が生まれる瞬間の音は吸い込む息みたいに短い。
炉が目を覚ました。
温度計の指針がゆっくりと右へ這い上がっていく。摂氏二百度。三百度。炉の鉄骨が熱で微かに唸り始める。獣が喉を鳴らすような低い連続した震えだった。
炉の前に立ったまま、朝の第一号を待った。
八時過ぎに事務所から無線が入った。
「灰谷さん、三號炉の予約入りました。身元不明の高齢男性。警察からの委託です。今から搬入」
受話器を握ったまま窓の外を見た。霧が出ている。駐車場の白線が霧の中で溶けてしまいそうだった。
「了解」
悠真が口にする言葉は、この十年、ほとんどこの類のものだった。了解。お願いします。三號炉で。業務の言葉だけだ。
受話器を置く。三號炉はいつも一號炉より十二分遅れて目を覚ます。三號炉の制御盤に向かう。作業。レバーを握る。点火装置を回す。火花。重油の匂い。炉の鉄骨の唸り。
温度計の指針が四百度を指した。
搬入は九時半だった。
白いバンが霧の中から現れた。後部座席には黒いビニールシートに包まれた人型の塊があった。警察の護送車ではなく斎場の契約業者の車だ。外に出た。冷たい空気が作業服の襟口から入り込んで首の後ろを撫でた。
業者の男が車の後部を開けた。
「身元不明。推定七十代後半から八十代。発見場所は市内の公園のトイレ。凍死か循環器系の突然死。警察の判断は『犯罪性なし』。遺品は後日、警察から届く。着衣は古い作業服と、セル画を描く時に使うような指先が黄色く染まった手袋」
担架の横に立ち、ビニールの端を持ち上げた。
老人の顔が現れた。
白髪は薄く頭皮が透けていた。顔面は死後硬直が解けて緩んでいた。目は閉じている。口も閉じている。しかし気づいた。老人の喉仏のあたりに微かなほとんど判別できないほどの赤黒い斑があった。火傷の痕ではない。古い非常に古い熱傷の痕跡のようなもの。
「名前は?」
「鴨志田慈雨。かもしだ・じう。公園のベンチで古いセル画のスケッチブックを抱えて死んでいた。中身は火のエフェクトのラフ画ばかり。警察の調べでは、三十年近く下請けでセル画の火を描いてきた職人らしい。十年前に業界から姿を消している」
老人の顔をもう一度見た。
鴨志田慈雨。
その名前を心の中で一度だけ発音した。舌の裏側が微かに痙攣した。何か遠い記憶の匂いがした。しかしそれはすぐに重油の匂いに消された。
「三號炉で」
納棺は十時十五分に終わった。
鴨志田慈雨の遺体を白木の棺に納めた。死装束は斎場の備品の白い着物。老人の指先は業者の言った通り黄色く変色していた。関節は何かを握り続けた形で微かに曲がっていた。絵筆を。あるいはセル画のペンを。
棺の蓋を閉めた。釘は打たない。炉に入れる時まで蓋は置いたままだ。
三號炉の温度はすでに八百度に達していた。
炉の前に立った。制御盤のボタンを押す。炉の扉が油圧式の低い音を立てて開いた。燃焼室の中は青白い。完全に燃焼した火は赤くない。透き通った白みがかった青だ。熱風が顔面を殴った。眉の端がチリチリと縮れる。皮膚の表面の水分が一瞬で蒸発する。
棺を台車に乗せた。台車を炉の扉の前まで押した。金属の車輪がレールの上で軋む。
棺を炉内に押し込んだ。
扉が閉じた。
覗き窓に目を当てた。
耐熱ガラスは熱で微かに歪んでいた。八百度の炎の中で棺の輪郭がゆっくりと溶け始める。白木が茶色く変色し黒くなりそして白くなる。灰になる。
温度計を見た。指針は八百を指している。安定している。完全燃焼だ。骨は白くなる。すべてが灰になる。
もう一度覗き窓に目を戻した。
その時だった。
炎の中で何かが動いた。
目を凝らした。歪んだガラスの向こうで青白い炎の渦が一瞬渦を巻いた。渦の中心で黒い塊が微かに震えた。肉の残骸だ。いや棺の中の何かだ。
老人の胸郭が爆ぜた。
パキンと硬質な音がした。吸気ダクトを叩く短い鋭い音だった。肋骨が熱で割れた音だ。何千回と聞いてきた音だ。しかし今回だけは違った。
その音の直後、ダクトの金属管が共鳴した。
――らん、らん、ポコポコ。
背筋が凍った。
風の音ではない。子供のそれひどく甲高い合唱の息継ぎの音だった。ブレスだ。歌の間奏の短い吸気の音だ。しかもそれは外からでない。炉の中から炎の中から吸気ダクト通じて耳朶を直接叩いた。
右手が反射的に燃料供給のレバーを握り潰した。
指先には今朝一番に焼いた名もなき行旅死亡人の灰がまだ爪の間に食い込んでいた。白い粉がレバーの金属の凹凸に填まる。
覗き窓の向こうで炎の渦がもう一度渦を巻いた。
渦の中心で黒い塊が震えた。いや震えていたのは塊ではない。塊の中の一点。首の付け根。喉仏。第二頸椎。仏像が座禅を組むように見える最も尊い骨。そこだけが八百度の炎の中でまだ黒く赤く生きていた。
喉仏が歌っていた。
――らん、らん、ポコポコ。
――ひのこの なかで わらいましょう。
レバーを握ったまま動けなかった。
十年間封じ込めていた自分の言葉が喉の奥で目覚めた。ポコポコパンダ。最終回。火の精霊と七つの声。子供たちがスタジオを出て廃工場へ向かうあの夜。
目を閉じた。閉じた目の裏に青白い炎が焼き付いていた。
炉はまだ歌っていた。
――ほねになるまで うたいましょう。
制御盤の赤いボタンが目に入った。緊急停止。消火ダンパー。炉内の酸素を断ち火を殺すスイッチ。指が勝手に伸びた。ボタンを叩いた。
轟音が消えた。
重油の供給が止まり燃焼室の青白い炎が一瞬にして萎んだ。消火ダンパーが鉄の呻き声と共に落下し炉内を密封した。温度計の指針が狂ったように左へ振れ始める。八百度から七百度へ。六百度へ。五百度へ。
炉の中で何かが蠢いた。
覗き窓の向こう、黒い炭化した塊の中心で喉仏だけがまだ赤く熱を保ち、微かに震えている。生焼けだ。骨は白くならなかった。肉は灰にならなかった。喉仏だけが八百度の記憶を残したまま、四百度の闇の中で呼吸をしている。
悠真は炉の扉に額を押し付けた。鉄の冷たさが額の皮膚に食い込む。炉の中で喉仏が歌っている。いや歌っているのではない。呼吸をしている。四百度の不完全燃焼の中で、肺胞の中のセル画用アクリル絵具が煤と混ざり、金属管を震わせ、子供の声の残響を立ち上らせている。
炉を開けられない。
規定で炉が完全に冷却するまで扉は開かない。いや規定ではない。恐れだ。炉を開けたら、生焼けの喉仏が自分を見る気がした。二つの黒い孔が、悠真の十年間の沈黙を、一言で貫く気がした。
事務所の方から足音が近づいてくる。警報が鳴っている。炉の異常停止は全館に知られる。悠真は制御盤の前に立ち、バーナーのノズルにスラッジが詰まったと嘘をついた。三號炉の扉に「点検中・使用禁止」の黄色い札をぶら下げ、南京錠を噛ませた。生焼けの鴨志田を炉の中に閉じ込めたまま、夕方までその前を通り続けた。誰にも気づかれなかった。誰も気づかなかったふりをした。
夜になった。
業務終了後、斎場の裏の喫煙所に立った。コンクリートの壁に寄りかかり安い紙巻タバコに火をつけた。火はオレンジ色だった。炉の中の火とは違う色だ。これは生きている人間の火だ。
煙を吸い込んだ。肺の奥まで煙が沈んだ。
霧はまだ出ていた。駐車場の白線は見えない。遠くで国道のトラックが空ぶかしの音を立てた。低い連続した獣の喉の音みたいに。
「あんた、まだ火の精霊の台詞を覚えてる?」
声が背後から聞こえた。
振り返らなかった。タバコの火先を見たまま、掠れた声で言った。
「……誰だ」
「父が首を吊った夜、お風呂場からその歌が聴こえたわ」
女が霧の中から現れた。
白かった。肌も着ているコートも首にかけた無骨な密閉型モニターヘッドホンもすべて白かった。黒いのは髪と目だけだった。目は遠くのトラックのライトみたいに濡れていた。
横に立った。距離は一メートル。しかし感じた。女から発している冷気が煤けた作業服を貫いて皮膚に届くのを。
「三號炉の中で、まだ歌ってる」
女は言った。確認ではなく宣告だった。
「お前、何者だ」
「桐生響子」
名を告げただけだった。しかしその名が、悠真の耳の奥で、小さな鐘みたいに鳴った。桐生。音響監督の娘。十年前、スタジオのコントロールルームで、ヘッドホンを首にかけた少女が、ガラスの向こうから自分を見ていた気がした。
女は白いコートのポケットから小さなMDディスクを取り出した。透明なケースの中で銀色の円盤が街灯の光を反射していた。
「あなたの声が入ってる」
MDディスクを見た。
女はMDを手に押し付けた。冷たい。氷みたいに冷たい。
女は霧の中へ戻っていった。
白いコートの裾が霧に溶ける。ヘッドホンのコードが蛇みたいに地面を這う。
一人になった。
MDを作業服のポケットに入れた。ポケットの中で銀色の円盤が心臓の音と同じリズムで震えた。
――らん、らん、ポコポコ。
斎場の裏口に向かった。鉄の階段を上がる。足音が階段を叩く。カラン、カラン、カラン。
三號炉の制御盤の鍵はロッカーにあった。
ロッカーを開けた。中に整然と並んだ作業服と手袋と安全靴。そして制御盤の鍵。
鍵を取り出した。
鍵は重油の匂いがした。
鍵を握ったまま三號炉の方を見た。扉は閉じている。しかし聞こえた。炉の中でまだ喉仏が歌っているのが。
――ひのこの なかで わらいましょう。
――ほねになるまで うたいましょう。
鍵を作業服のポケットに、もう一度入れた。
ポケットの中でMDと鍵がカチリと鳴った。




