「第3章 —— 木の中の秘密」
SE-更新が遅れてしまい申し訳ありません。ここ数週間は忙しい日が続いており、今後の章の公開も1〜2日ほど遅れる可能性がございます。お待ちいただいている皆様にはご迷惑をおかけしますが、ぜひ今回の話を楽しんでいただければ幸いです。
疲れ果てていた。マックスとの競走を終えたばかりの僕は、まだ体力を回復できていなかった。 あの競走は楽しかった。けれど、今のこれは……楽しむためだったのか? 違う。時間に間に合わなかったからか? それも違う。
僕は、確実な死から逃れるために走っていた。
五歳児の短い脚で出せる限りの速さで逃げた。あと数センチでも遅れていたら、捕まっていただろう。幸運にも、あの災厄は別の哀れな犠牲者に気を取られた。そのおかげで、僕は命拾いしたのだ。
僕は村の外れにある桜の木の後ろに身を隠していた。そこは僕にとっての安全地帯だった。
息が切れていた。五歳児の身体に、ここまでの無理をさせるべきではない。そうでなければ、疲労は恐ろしい代償を要求してくる。
僕は新鮮な草の上に仰向けに倒れ込み、両腕を伸ばして、風に揺れる枝葉の間へと視線を漂わせた。
「危なかった……もう少しで生きて帰れないところだった。全部、父さんのせいだ」
僕はため息をつき、呼吸を整えながら、エラリオンと一緒に引き起こしてしまった大惨事を思い返した。
【少し前】
あの店での出来事の後、僕たちは帰路についた。歩を進めるたび、沈黙が僕たちの後をついてくるようだった。
エラリオンはいつになく口数が少なかった。何にも触るなと念を押されていたのに、僕はその忠告を聞かなかったのだ。
道の途中で、父さんはわずかに顔を横に向け、僕を見た。
その視線が向けられた先は僕ではなく、僕が胸に抱きしめていた本だった。
もう過去を変えることはできない。
僕は何ひとつ言葉を発することができなかった。父さんがこんなにも真剣な表情をしているのを見たのは、これが初めてだった。
「こんな気まずい空気、初めてだ……。まるで葬式にでも参列しているみたいに重苦しい」
「アーサー。私がお前に、唯一してはいけないと言ったことは何だった? 答えてみなさい」
父さんの声は、いつもとは違っていた。優しさも明るさも感じられない。
「な、何にも触らないこと……」
僕はそう答えたものの、父さんの顔をまともに見ることができず、視線を地面に落としたままだった。
「では、お前が最初にしたことは何だった?」
父さんは立ち止まり、完全にこちらへと振り向いた。彼の視線には、はっきりとした苛立ちが込められているのを感じた。
「ごめんなさい、父さん……」
僕は顔を上げ、叱られる覚悟を決めた。けれど――
「アート! 避けろ!」
何が起きているのか理解できなかった。周囲を見回しても、何もない。そこには人影ひとつ見当たらない、ただの空っぽの道があるだけだった。
次の瞬間、目に見えない力が僕を襲った。突風のようなものが、僕の身体を激しく後方へと吹き飛ばしたのだ。
顔を上げると、僕がほんの数秒前まで立っていた場所で、空っぽの巨大な木箱が粉々に砕け散っていた。
僕は呆然とした。心臓が激しく脈打っている。
エラリオンを見ると、彼は腕を伸ばし、指を奇妙な形に構えていた。
「危なかったな。これ以上小さくならずに済んでよかったじゃないか、息子よ」
そう言いながら、父さんは近づいてきて、僕に手を差し伸べた。
僕は落ち着いて立ち上がった……はずだった。
しかし、僕の身体は生物としての本能に従い、勝手に反応した。
「どうやら、誰かがうっかり手を滑らせたみたいだな……」
「父さん!」
僕は父さんに飛びつき、目に涙を浮かべながら、ありったけの力で抱きしめた。
危険は去った。頭ではわかっていた。
それなのに、どうして身体の震えが止まらないのだろう?
この小さな身体を完全に制御できないことが、僕は嫌で仕方なかった。
五歳児の神経系は、死を目前にしたとき、理屈など理解してくれないのだ。
エラリオンはしゃがみ込み、大きくてごつごつした手で、僕の目からあふれる涙を拭ってくれた。それは生存本能が引き起こした、止めようのない涙だった。
「心配するな、息子よ。私が生きている限り、お前たちに何かあれば、必ず守ってみせる」
父さんは、いつもの温かな笑顔を浮かべた。
「この安心感……」
この温もりを初めて感じた日のことを、僕は今でも鮮明に覚えている。
それは、この世界に生まれた日。ダイアナの腕に抱かれていた、あの瞬間だった。
「そろそろ帰ろう。母さんが心配しているだろうからな」
父さんは僕を軽々と抱き上げ、自分の肩に座らせた。
角を曲がり、ようやく落ち着きを取り戻した僕は、父さんに質問し始めた。
「父さん、どうやって僕が怪我をしないようにしたの? 手で何をしていたの? あれって、もしかして……!?」
「一つずつ説明してやるよ、息子」
エラリオンは笑った。
「さっきのは風魔法だ。手の動きを組み合わせることで、素早く魔法を発動させたんだ。走っていてはお前に間に合わないと思ったから、エアロを使ってお前を吹き飛ばしたんだよ」
「なるほど、あのとき感じた風はそれだったのか」
「アート。この世界では、ほとんどの人間が自然界の四つの基本属性のうち、いずれか一つに適性を持って生まれる。火、水、風、土だ。これは人生を通じて私たちに寄り添ってくれる、祝福のようなものなんだ」
「適性?」
僕は興味津々で聞き返した。
「そうだ。魔法と私たちを結びつけるものだよ。さっき私がした手の動きは、呪文を唱えずに魔法を発動するための近道だ。ただし、そうすると魔法の威力は半分以上も落ちてしまうがね」
「すごい! 信じられないよ! じゃあ……僕にもできるの?」
「もちろんだとも。ただし、今は観察するだけにしておきなさい。成長して、お前の核が基本的な概念を理解できるようになったら、試してみるといい」
「その基本的な概念って何? それに、手の動きも……!」
エラリオンは僕の髪をくしゃくしゃとかき混ぜた。
「お前のような小さな悪魔に説明するには、まだ情報が多すぎるな。いずれアーサー、お前も自分で答えを見つけられるようになるさ」
「じゃあ、母さんはどんな魔法を使うの?」
「家に着いたら、本人に教えてもらうといい。まあ、母さんはめったに魔法を使わないけどな」
そんな会話を続けているうちに、僕たちは家にたどり着いた。
父さんはいつもの笑顔を浮かべながら、扉を開けた。
「ただいま、愛しい人! すぐに帰ってきたよ。そんなに時間もかからなかっ……」
数歩進んだところで、僕たちはぴたりと足を止めた。
ダイアナが食卓のそばに座り、黙ってこちらを見つめていたのだ。
その視線は冷たく、鋭く、僕たちから一瞬たりとも離れなかった。
空気はあまりにも重く、息をするのさえ難しいほどだった。
「あらあら、私の愛しい家族。無事に帰ってきてくれて、とってもうれしいわ」
彼女は危険なほど甘い声で言った。
「ところで……夕食のために頼んでおいたお肉と特製のパンは、どこにあるのかしら? 〜」
店での騒動と魔法についての会話に夢中になっていたせいで、僕たちはダイアナから頼まれていた唯一の用事を、すっかり忘れてしまっていた。
部屋に沈黙が広がった。
父さんも僕も、ダイアナの質問に答えることができなかった。
答えは、すでに出ていたのだ。
「ダ、ダイ……愛しい人、心配しないでくれ。私は、その……」
エラリオンが答えようとした、そのときだった。
足元の床が、かすかに震えた。
棚の上の飾りが揺れ、窓ガラスがカタカタと音を立てる。まるで、これから訪れる終末を警告しているかのようだった。
ダイアナはゆっくりと立ち上がった。
「二人とも……忘れたのね? そういうことよね? 〜」
父さんは冷や汗を流しながら、横目で僕を見た。そして唇だけを動かし、必死の形相で無言の命令を伝えてきた。
ニ・ゲ・ロ、ム・ス・コ。
ためらうことなく、エラリオンはダイアナに向けてエアロを放ち、僕たちが玄関へ逃げるための隙を作ろうとした。
しかし、母さんの声が無情にも響き渡った。
「テラ……」
「……え? 今、何て言った?」
玄関まであと数歩というところで、木製の床がきしんだ。
次の瞬間、頑丈な土の柱が地面から勢いよくせり上がり、玄関の扉を完全に塞いだ。
逃げ道はなくなった。
母さんの足音が、ゆっくりと近づいてくる。
混乱のさなか、僕は玄関付近の窓が開いていることに気づいた。
何も考えずに窓から飛び出し、父さんを置き去りにして、全速力で走り始めた。
「待ってくれ! 一人にしないでくれ、息子よ! 助けてくれぇぇ!」
振り返ると、すでにダイアナが父さんを捕まえていた。
それが、僕の耳に届いた父さんの最後の叫びだった。
僕は母さんに見つからない場所を求めて、知っている限り唯一の場所へと逃げ込んだ。
【現在に戻る】
「また死にかけた……。今度は強盗のせいじゃない。女の怒りのせいだ。それに、母さんが土魔法を使えることもわかった。でも、僕が知りたかった方法とは違ったけど……」
冷たい風と草の香りに包まれ、僕は少しずつ落ち着きを取り戻していった。
心配事をいったん脇に置き、時間が過ぎるのを感じながら、服の下に隠していた分厚い黒い本を取り出した。
店では確認できなかった情報を読むため、今のうちに利用しようと思ったのだ。
震える手で革表紙を開き、最後のほうのページを探した。
ところが、驚いたことに、そこには何も書かれていなかった。
「えっ? どうして何も書かれていないんだ? 数時間前には、確かに何かあったのに……何が起きた?」
この本は普通の本ではない。
困惑しながら、文字が消えてしまったのだと思った僕は、最初のページに戻り、冒頭の文章を読み直した。
すると、驚くべきことに……何一つ理解できなかった。
そこに書かれていたのは、僕の知らない言語だったのだ。
さっきまで嫌悪感を抱いていた子供向けの物語が、今では解読不能な謎へと変わっていた。
その瞬間、僕はすべてを理解した。
そして、自然と笑みがこぼれた。
「こんなの、あまりにも当たり前のことじゃないか。どうして最初から気づかなかったんだ? 答えは単純……僕は文字が読めないんだ」
自分が何者なのかを確認したところで、別の疑問が頭をよぎった。
なぜ文字が消えたのか?
そして、どうして僕は最初からこの本を読めていたのか?
紙やインクそのものが普通ではないのではないか。そんな仮説を立ててみた。
「あの光と何か関係があるのだろうか?」
僕の思考は、店で見た光景へと戻っていった。
あの店では、金色の光の筋が存在していた。そして、その光は僕を本へと導いたのだ。
もし、あの光が再び本に触れたら、何が起こるのだろう?
僕は木にもたれ、背中と頭を預けた。
目を閉じ、呼吸をゆっくりと整えていく。
やがて、僕の意識は広大な暗闇へと沈み始めた。
そして少しずつ、足元に光を反射する地面が現れた。
再び、あの精神世界へ戻ってきたのだ。
すべては以前と変わらなかった。
だが、何かが足りない気がした。
周囲を見回しても、そこには平坦で、静かで、果てしなく広がる空間があるだけだった。
「おかしいな……記憶では、ここに何か……あっ!」
振り返った瞬間、あの緑色の煙でできた人影が、目の前に立っていた。
あまりにも近かったため、驚いた僕は足をもつれさせ、その場に尻もちをついた。
「痛っ……こんなときに……って、あれ? 濡れてない?」
かつて水に覆われていたはずの地面は、ただの……幻だったのだろうか?
僕は立ち上がり、時間が過ぎるたびにこちらを見つめてくる存在に視線を向けた。
「君は話せるのか……? 僕の言葉がわかる?」
心の中に広がる広大な空間で、僕は問いかけた。
返事はなかった。
僕たちはただ、向かい合って立ち尽くしていた。
まるで時間そのものが止まってしまったかのような沈黙だった。
その存在に触れてみたいという衝動が湧き上がった。
実体があるのかどうか確かめるため、僕は手を伸ばし、ゆっくりと近づけていった。
だが、指先が触れる寸前、その存在は音もなく消えた。
そして、何の痕跡も残さず、数メートル離れた場所に再び現れた。
以前と同じように、その存在の一部が伸び、僕の胸をまっすぐに指し示した。
しかし、今回は違った。
鋭い痛みが走ったのだ。
胸の中心から、焼けた鉄を押しつけられたような灼熱感が広がっていく。
「くそっ……熱い! 燃えるように熱い!」
僕は息を荒げながら、勢いよく目を開いた。
現実へと引き戻されたのだ。
右手が、かすかでありながらも、紛れもない金色の光を放っていた。
僕はざらざらした本のページに触れた。
その瞬間、黒いインクの糸が紙面から蔓のように這い出し、隠されていた文章を浮かび上がらせた。
「日付:第五の月、三十日――年:千二百五十六年」
王は救世主などではない。冷酷無比な存在だ。彼は貴族たちの間で暗殺と腐敗を繰り返し、血にまみれながら王座を手に入れた。
教会の資金は、貧しい人々のために使われていたわけではなかった。その金は、北部の領土で虐殺を引き起こす組織「ブラックリスト」に資金提供するために使われていたのだ。すべては、反乱の芽を摘み取るためだった。
実の兄も、家族同然だった仲間たちも、金と権力に目がくらんでしまった。彼らは村や街を丸ごと浄化することを受け入れた。罪のない人々を何のためらいもなく虐殺し、略奪し、夫たちの遺体の前で女たちを犯した……そして、何一つ痕跡を残さなかった。
僕は凍りついた。
「腐敗、暗殺、粛清……。誰がこれを書いたんだ? 王族に近しい人間なのか?」
僕は必死に答えを探し、次のページをめくった。
七の月の記録を読もうとした、その瞬間だった。
右手の金色の光が、雨に打たれる蝋燭のように明滅した。
胸の中から、突然何かが抜け落ちたような感覚がした。
鋭いめまいが襲い、疲労が一気に押し寄せてきた。
僕の体力は、完全に底をついてしまった。
目の前で、黒いインクが紙の中へと逆流し始めた。
文字は徐々に消えていき、ページは再び、完全な白紙へと戻ってしまった。
「待ってくれ! まだだ!」
僕は小さく叫び、本を叩いた。
だが、何の意味もなかった。
この秘密の続きを解き明かしたいのなら、偶然の一瞬の輝きだけでは足りない。
もっと強くならなければならない。
白紙に戻った本を見つめ、僕はしばらく物思いにふけっていた。
しかし、草を踏みしめる足音が聞こえたことで、すぐさま本をシャツの下へ隠した。
桜の幹の陰から、そっと顔を出す。
そこにいたのは、数時間前にぶつかった白髪の少女と、あの厳格そうな付き添いの男だった。
「ここが目的の場所なの、ベリル?」
少女が尋ねた。
「はい、お嬢様。あの奇妙な店の店主が教えてくれた場所でございます」
「あの店って……今朝、父さんと一緒に行った店のことか?」
「そう。では、座ってちょうだい。足を組み、肩の力を抜いて、心を落ち着かせるのです」
少女は地面に座り、精神を集中させ始めた。
すると、彼女の周囲で風が渦を巻き始めた。
桜の枝から花びらが舞い落ち、彼女を包み込むように、美しい円を描いて回転し始めた。
「もう少しです……そのまま続けてください」
ベリルが励ました。
少しずつ風は穏やかになり、周囲の空気そのものが変化し始めた。
「や、やったわ、ベリル! 私、でき……!」
少女は歓声を上げた。
しかし、その直後、彼女は制御を失った。
少女は激しい肉体的苦痛に襲われたかのように、目を固く閉じ、身体をよじり始めた。
「手を伸ばして、すぐに外へ放出してください!」
次の瞬間、巨大な水の波が少女の身体から爆発するように噴き出した。
あまりにも凄まじい水流だった。
その勢いは、広場を水浸しにし、桜の木さえもなぎ倒しかねないほどだった。
ベリルは即座に行動した。
「テラ!」
彼が手を掲げると、地面が激しく震え始めた。
巨大な土の壁が次々と地面からせり上がり、迫り来る水流を受け止め、その衝撃を吸収しながら別の方向へと逸らしていった。
やがて、水の勢いは収まった。
「ふぅ……危ないところでした。お加減はいかがですか?」
ベリルは土の壁を消しながら尋ねた。
「もう大丈夫。でも、あの場所では身体を動かせなかったの。それに、あの奇妙なものに、ものすごい勢いで追い出されてしまったわ」
少女は咳き込みながら答えた。
「あの場所……?」
「ご心配には及びません。自分自身の領域に入ることは容易ではありませんし、ましてや、元素の精霊と良好な関係を築こうとするのは、なおさら難しいことです」
ベリルは優しく慰めた。
「魔法を制御できるようになれば、自由に動けるようになるでしょう。そして、いつか精霊もあなたを認めてくれるかもしれません」
「そういうことか! 僕が心の中で行っていた場所は『領域』と呼ばれるものだったんだ。そして、あの緑色の煙の存在は『元素の精霊』……!」
思いがけない情報を手に入れ、僕は驚きながら理解を深めていった。
二人は荷物をまとめ、誰かに見られないよう、衣服のフードを深くかぶった。
「目的を達成できた以上、そろそろ出発いたしましょう、お嬢様」
ベリルが告げた。
僕は二人が十分に遠ざかるまで、息を潜めて待ち続けた。
やがて隠れ場所から出て、中央にある、まだ水で濡れた花びらの円へと歩いていった。
すると、草の上で何かが光っていることに気づいた。
かがんで拾い上げる。
それは、ツバメの紋様が刻まれた、美しい青いクリスタルのイヤリングだった。
「へえ……綺麗だな……」
「それを返しなさい! 今すぐに……あなた!」
突然の声に、僕は飛び上がった。
足音など、まったく聞こえなかった。
そこにいたのは、またしてもあの少女だった。どうやら、イヤリングが片方なくなっていることに気づき、慌てて引き返してきたらしい。
「え、えっと……こ、こんにちは。また会ったね……」
僕はぎこちなく笑った。
自分の命運は、ここで尽きるのだと悟っていた。
その瞬間、広場に強い風が吹き抜けた。
風の勢いで少女のフードが後ろへとめくれ上がり、白く艶やかな髪の間から、長く優雅で尖った耳が姿を現した。
「もうっ! この馬鹿な風!」
少女は叫び、両手で必死に耳を隠そうとした。
しかし、慌てていたせいで、自分の耳に手をぶつけてしまった。
その拍子に、もう片方のイヤリングが地面へと落ち、チリンと澄んだ音を立てた。
僕は息を呑んだ。
前世で読んだ数々の小説やアニメに登場していた、あの伝説的な存在を、僕は生まれて初めて目の当たりにしたのだ。
自然と深く結びつき、現実離れした美しさを持つ存在。
エルフ。
「君は……エルフだったのか」
僕は心から驚き、思わずつぶやいた。
その言葉を聞いた瞬間、少女の目に涙が浮かんだ。
恥ずかしさと恐怖が、彼女の心を完全に支配していた。
見知らぬ子供に、自分の秘密を知られてしまったのだ。
彼女が泣いているのを見て、僕は我に返った。
近づいて地面に落ちた二つのイヤリングを拾い上げると、落ち着いた仕草で彼女に差し出した。
「どうやら今回は……僕の助けが必要みたいだね、my lady」
僕は穏やかな口調で言った。
「ちょっと待て!? my ladyだって? こんなときに限って、ロンドン仕込みのアクセントと格式ばった言い回しが出てくるなんて……チャールズ、お前ってやつは!」
風が穏やかに吹き、僕たちの周囲に桜の花びらが舞い落ちた。
少女は不信感を露わにしながらも、やがて僕の手からイヤリングを受け取った。
「ありがとう……」
彼女は涙を拭いながら、小さな声でつぶやいた。
僕はもう片方のイヤリングを指し示した。
少女はそれを素早く耳につけた。
すると、青い光が耳の周囲を包み込んだ。
長く尖っていた耳が徐々に縮み、人間の耳と同じ丸みを帯びた形へと変化していった。
僕たちは数秒間、黙って見つめ合った。
「そのイヤリング……ただの装飾品じゃないんだよね?」
僕は沈黙を破るために尋ねた。
「うん……身分を隠して旅ができるように、渡されたものなの……」
彼女は地面を見つめながら認めた。
「そうなんだ。でも、ちょっと残念だな。君の本当の耳も、すごく素敵だったのに。あんなに美しいものを見られる機会なんて、そうそうないからね」
少女は目を大きく見開き、呆然とした表情で僕を見つめた。
頬が、ほんのりと赤く染まっている。
彼女はきっと、僕が悲鳴を上げながら逃げ出し、村中に人間ではない存在がいると触れ回ることを予想していたのだろう。
「ああ、そうだ。今朝はいろいろあって、自己紹介を忘れていたね。僕の名前はアーサー。よろしく」
僕は軽く頭を下げ、礼儀正しく挨拶した。
「ぷっ……」
少女の口から、甲高い笑い声が漏れた。
僕は黙り込み、不満げに彼女を横目で見た。
「……どうして笑うんだ? なかなか立派な名前じゃないか」
「ご、ごめんなさい……! でも、あなた、アーサーっていう名前なの? あははは!」
彼女は両手で口を覆い、笑いを必死にこらえようとしていた。
「僕の名前の何がそんなにおかしいんだよ?」
僕は眉をひそめて尋ねた。
「だって、私たちの古い言葉では、『アー・トゥ・ル』って……」
「またお会いしましたね、少年」
背後から聞こえた声に、僕の背筋が凍りついた。
いつの間にか、ベリルが僕のすぐそばに立っていたのだ。ほんの数センチの距離で、僕をじっと見つめていた。
「どうなってるんだ!? どうしてこんなことができる? 草を踏む音すら聞こえなかったぞ!」
ベリルは、ずっしりと重い手を僕の肩に置いた。
「今見たことは、誰にも話さない。そのくらいの分別はあると信じたいものです。あなた自身のためにもね、小さな少年」
「だ、大丈夫です……。僕は墓場まで秘密を持っていきますから」
僕は唾を飲み込みながら、必死に答えた。
ベリルは小さくうなずくと、少女の肩に手を添えた。
そして二人は、南へと続く木々の間へ姿を消していった。
太陽は沈み始めていた。
新たにできた湖の水面には、夕暮れの光が反射していた。
「そろそろ帰ろう。母さんも、もう落ち着いているだろうし……。あとは、父さんがまだ生きていることを祈るだけだな」
僕は木のそばに置いていた本を手に取り、村へと戻り始めた。
自分の家がある通りに到着すると、玄関を塞いでいた巨大な土の壁が消えていることに気づき、ほっと胸をなで下ろした。
僕は危険が去ったかどうか確かめるため、扉をゆっくりと開け、顔だけをそっと覗かせた。
目の前に広がっていた光景は、あまりにも現実離れしていた。
ダイアナは食卓に座り、優雅なティーカップを手にしていた。
その顔には、幸福と安らぎが満ちあふれていた。
まるで、何事もなかったかのように。
そして、その足元には――
エラリオンがうつ伏せに倒れていた。
髪は乱れ、服は土まみれで、身体のあちこちに傷を負い、疲れ果てた様子だった。
「た、ただいま……母さん」
僕は恐る恐る声をかけた。
「あら、アート! おかえりなさい!」
母さんは、何事もなかったかのように、晴れやかな笑顔で答えた。
「夕食はもうすぐできるわよ。手を洗ってらっしゃい。今日はあなたの大好物を作ったの」
嵐は過ぎ去った。
我が家には再び平和が訪れたのだ。
ただし、その代償として、一人の犠牲者が生まれた。
僕は床に倒れているエラリオンのそばへと近づいた。
「ごめんね、父さん。でも、僕に何も悪いことが起きないように守るって言ったのは父さんだからね。父さんか僕か……どちらかが犠牲になるしかなかったんだ。自分の子孫を守るためにも、父さんには犠牲になってもらうしかなかったんだよ……」
IM-新しい章をお読みいただき、本当にありがとうございます!楽しんでいただけていたらとても嬉しいです。 次の章もなるべく遅くならないようにお届けできるよう頑張りますので、これからも気に入っていただけると幸いです。 それでは、また来週お会いしましょう!




