98 宿屋『ティパ・ハフクラ』
――リシオン大陸の最北端に位置する、港町イルハレバナ。白の外壁で統一された町並みが、青い海と美しく交錯する。
「なんか、きめぇジジイの声がする」
船酔いのためか、キラは到着早々にナレーション音声を強めの言葉で揶揄した。その顔色はまだ青白く、表情も下唇をまくり上げて顎にシワを寄せるという、とにかくひどいものだった。
それでも波音は、心地よく私の耳に響いた。降り立った木製の桟橋は、見た目よりもしっかりとした踏み心地で、思わずソフィーさんの顔を覗いてしまったほどだ。
ソフィーさんは何も言わず、悪戯っぽく微笑んできた。なぜかこちらが気恥ずかしくなり、視線を外すと、ピィちゃんとサラマンダー君が宙に漂う小さな羽虫と格闘しているところだった。
「ダメだ。ムガ、ちょっとおんぶしてくれ。抱っこでもいいけど」
キラがみぞおちのあたりをさすりながら、アシハラに甘え始めた。
「あいよ。山賊抱きでもいい?」
「ダメに決まってるだろ! お姫様抱っこがいい!」
「あぁ……そう」
アシハラの巨体だと、背負うよりも抱える方が楽なのだろう。提案を却下された彼はため息交じりに、華奢なキラの体をすくい上げた。
「まずは宿だな」
濃厚な磯の香りを先頭で受けていた大賢者がパーティの行き先を決める。
ゲームの世界であっても、私たちは何ひとつ変わらないのだなと、安堵にも似た気持ちが押し寄せた。
「全速前進!」
逞しい腕に包まれて、全能感が生まれたに違いない。キラの元気な掛け声を合図に、私たちの冒険が始まった。
――かくして一行は
「うるせぇぞ、ジジイ!!」
と思いきや、歩き出そうとした大賢者が足を止め、空に向かって怒鳴り散らす。その声量たるや凄まじく、ナレーションをかき消すほどだった。
「これ、オフにできないんですか?」
そろそろ煩わしく思えてきた私も、完全にではないが彼の意見に賛同する。現実的な解決方法はないかと、隣に立つソフィーさんを仰ぎ見た。
「いらないの? ゲームマスターの音声、せっかく頑張って作ったのに」
彼女は容赦なく悩ましげな表情を向けてくる。私は生唾を飲み込みつつ、それとなく要求を伝えられないかと模索した。
「ゲームマスターはソフィーさんじゃないですか。せっかくだから、この世界に没入したいですし……ネタバレも防げます。なにか困った時があったら、直接聞きますから」
「わかったわ……」
ソフィーさんは残念そうに呟くと、人形のように固まった。私を見下ろしていた彼女の瞳から、一瞬にして光が消える。瞬きひとつしなくなったかと思えば、何事もなかったかのように生気を取り戻した。
「これで大丈夫。行きましょう」
かくして私たちは、青と白のコントラストが美しい港町、イルハレバナの宿を目指すことになった。
未知なる世界に期待を膨らませながら、私は一歩前に踏み出した。
その宿の看板には『ティパ・ハフクラ』と書かれていた。中に入ると、どこか郷愁を誘うような、温かみのある内装が私たちを迎え入れてくれた。
壁には色鮮やかなタペストリーが掛けられ、足元は使い込まれたブナ材の床で統一されている。酒場も兼ねているのか、吹き抜けになった空間の際にある暖炉だけは妙に現代的で、そこで揺らめく炎の熱だけが、やけにリアルに頬を撫でた。
「お一人様、一泊八リーブです」
「フハハハハ!」
不敵な笑いで応えたのは、上半身裸のままの大賢者だ。彼は私たちをぐるりと見まわしてから、もう一度店主と向き合った。
「そんな大金、持ってるわけねぇだろう!! このぼったくりオヤジが!!」
とても素晴らしい我らがリーダーは、カウンターに身を乗り出し、店主の首を締めた。一方で店主は、首を掴まれていることよりも、提示した額面を貫くことに必死のようだった。
未知なる世界は揉めごとから始まった。
「ちょっと! 落ち着いてください!」
私はガチガチに鍛え上げられた大賢者の肩を掴んだ。もし彼が本気ならば、私の力などで止めることなんてできない。そんなことは、十分すぎるほど承知だ。しかし、肌越しに伝わってきたのは『冗談だよ』といういつもの波動。その証拠に、彼は容易く動きを止め、こちらを振り返った。
「大変だ、タル! どうしよう? お金が無い!」
億万長者である大賢者の口からそんな言葉が出るのがちょっとだけ面白く感じてしまい、私はうっすらと笑みを浮かべてしまった。
「あるわよ?」
ソフィーさんが、この茶番劇の出鼻を挫いてくれた。彼女が手にしていたのは小袋というには少し大きい麻の袋。その重みで袋がずっしりと膨らんでいるのが頼もしく感じられた。
「一人百リーブ。現実世界とは価値が違うけど」
ソフィーさんは袋の中に手を入れると、円形の金貨を一枚だけ取り出して私たちに見せてきた。価値だけではなく、その形までが現実とは違うことを確認できた。
「……ペットと子供は?」
落ち着きを取り戻した大賢者が、再び店主と交渉を始める。
「お一人様、一泊八リーブです」
特に取り乱す様子もなく、店主は答えた。首を締められて、なぜこうも平気でいられるのだろう。作られた存在だからか、それともすぐ目の前に迫る五十六リーブがそうさせているのか。いずれにせよ、サンプル不足だ。私はその場での分析を諦めた。
ひと悶着はあったが、通された二階の部屋は、六人と一匹全員が入ってもゆとりのある、開放感に溢れた部屋だった。窓を開ければ、イルハレバナの美しい街並みが一望でき、海鳥の鳴き声と潮騒が辛い現実を忘れさせてくれる。
「私は寝るぞ」
アシハラによって、本物のお姫様のように大事にベッドに寝かされたキラはそのまま静かに寝息を立て始めた。
「ピィ」
「え? 浜辺に行きたいの?」
早速、次のミッションを言い渡されるアシハラ。水が大好きなピィちゃんにとって、この町は極楽のような場所なのだろう。
「よし、行くぞ。タル」
どこへ。そんなことを聞く暇もなく、大賢者が町へと繰り出そうとする。
「目的は?」
「情報収集に決まってるだろ。あと金。今の所持金だと、十泊ぐらいしかできないからな」
空間魔法とかいう、人間離れした高度な計算能力を要求される魔法が使えるくせに、普段はどんぶり勘定にもほどがある。とはいえ、一家の大黒柱でもある大賢者らしい考え方だ。彼がまず目指したのは、経済の安定化だった。
「私も行くわ」
珍しいなんてものじゃない。ソフィーさんが、私たちと行動を共にする意思を示した。あまりのことに、私は言葉を失いながらも、その裏に隠されている意図を汲み取ろうと思考を巡らせた。
「……となるとぉ? サラマンダー君、キラを頼めるか?」
「キュオーン!」
代わりに状況を整理したのは、大賢者だった。サラマンダー君は、喜んでその役目を受け入れた。
「それじゃあ行ってきます。なるべく早く帰りますんで」
「ピィ!」
浜辺部隊のアシハラとピィちゃんが一足早く部屋を後にした。
「それじゃあ、俺らも行くかぁ」
部屋を出る直前、大賢者はキラの寝顔に視線を向けていた。
その目は、普段のちゃらんぽらんなおふざけの色が消えた、情愛を宿す父親の瞳そのものだった。




