97 【旧世界】 伝承の一族とリシオンの海
――かつての魔法は、信仰によってもたらされる奇跡の力であった。
南北に分かれた二つの大陸からなるリシオン。
その南側、ラ・シルトと呼ばれる聖地に『はじまりの木』はそびえ立つ。
樹冠は天をも貫き、幹は山ほどもある。
根元では、地を這うように男が額をこすりつけている。
「女神よ、どうか我々をお導きください!」
それは『はじまりの木』から奇跡を授かった人間の末裔による、切なる懇願だった。
しかし、すでに眠りについた女神が答えを示すことはなかった。
海に分けられたリシオン。
そこで暮らす人々もまた、二つに分かれていた。
ひとつは女神の民として大陸に残り、滅びを共にすることを選んだ。
もうひとつはリシオンを離れ、自分たちの力で歩くことを選んだ。
信仰の力が弱まり、枯れゆく母。
地殻変動により、沈みゆく南大陸。
永遠と思われていた時代は、緩やかに終わりを迎えようとしていた。
だが、大いなる使命を持った人間族が、リシオンへと近づいていた。
その人間は遥か北より、海を越えて、今まさに船の中で目覚めようとしている。
『伝承の一族』、それが貴方だ――。
――老獪なナレーションが終わると、次の瞬間には、ベッドの中で目が覚めた。
波の動きに合わせて、船全体が軋むような音が嫌でも耳に入ってくる。
船室には窓も照明もない。なのに、なぜか周囲がはっきりと見える。こういうゲームというのは、これが当たり前なのだろうか。
見渡してみると、家具類はおろか、天井から床までが落ち着いた色合いの木で作られている。オープニングの内容から察するに、神話と魔法史をミックスさせた超古代の時代なのだろうが、どこか中世を思わせるような作りでもあった。
他にこれといったものは、何も見当たらない。このゲームの開発者であるソフィーさんだけが、ベッドのすぐ近くで、私を見下ろしているくらいだった。
「今のが、オープニングですか?」
「そうなるわね」
とにかく、動き出さなければ始まらない。私はベッドから立ち上がろうとした。が、タイミングよく激しい横揺れが起こり、バランスを崩しかけてしまった。
「……皆は、どこに?」
なんとか体裁を保ったついでに、ソフィーさんに尋ねる。彼女は見透かしたような笑みを浮かべていた。
「甲板にいるわ。合流しましょう」
そう言うとソフィーさんは現実世界と同じ、花束の匂いを残して歩き出した。圧倒されるまま、私は彼女の後を追った。
部屋を出ると、ドアの開かれた部屋がずらりと並んでいた。
私のも含めて部屋の数は全部で六つ。皆がこの世界に来ている。そう思うと、肩に入っていた力が抜けていった。
観察癖の抜けきらない私とは対照的に、ソフィーさんはしなやかに体を動かした。突き当たりの階段を目指しているのだろう。廊下を直進する彼女の後に従いながら、私は左右に配置された部屋の様子を確認した。
丸い窪みの残されたベッド、少しだけ湿り気を含んだ床、きちんとベッドメイクがなされた部屋、寝具が床に落ちている空間、ドアノブとドアの両方が破壊された一室。
誰がどの部屋だったのか、何となく想像がつく。ドアを壊したのは、どうせ大賢者だろう。ルール無用のあの男が、この世界ではどう立ち回るのか。新たなる好奇心が芽吹くのを感じた。
足音を反響させながら階段を登りきると、重々しい両開きの扉が私たちを待ち受けていた。
隙間から漏れ出る光は一層強くなり、古代の海鳥たちの低く鋭い鳴き声が響く。
それと――。
「オロロロロロ……」
扉の向こう側で、三半規管の弱いキラが盛大に船酔いしていた。
心配になった私はソフィーさんと顔を見合わせ、彼女と共に新しい世界への扉を開いた。
一面の海に、澄み渡る青空。甲板を照らしつける、少し暑いくらいの日差し。
そして、心地よい潮風に運ばれてきたのは、なんとも言えない、酸っぱい匂いだった。脇の方に視線を走らせると、手すりを掴んで海へと身を乗り出す少女と、彼女の背中に手を当てている中年男性の姿があった。
「大丈夫?」
背中をさすりながら心配するアシハラの声に、キラは黙って首を横に振っていた。
「おう、タル! ようやく起きたか!」
見覚えのある六角形のガーデンテーブルには、私を手招きする色男の姿もあった。
「ピッ!」
「キュオーン!」
そのすぐそばに立っていた、フードを目深にかぶった男児と赤毛の中型犬が、私に向かって挨拶を飛ばす。ピィちゃんとサラマンダー君だ。
キラにはアシハラがついている。それだけで大丈夫だと思った私は、ピィちゃんとサラマンダー君に挨拶を返した。そのまま見慣れたテーブルへと近づき、呼んでいた大賢者の向かいに座る。
「何で、裸なんですか?」
よそ行き用の襟付きローブはどこへやら。彼は上半身裸の状態で、太陽からのエネルギーを食い尽くすかのごとく不遜に笑っていた。
「なんたって、俺は今、伝承者の一族だからな!」
「伝承者じゃなくて、伝承」
大賢者の横に腰掛けながら、ソフィーさんが淡々と訂正する。ゲームの世界に来ても、この男はわけがわからなかった。
「伝承の一族だと、なぜ裸に?」
「知らんのか?」
知らんから聞いているんだ。
呆れる私をよそに、大賢者は少年のように目を輝かせながら堂々と胸を張った。
「この一族って、ソフィーのオヤジのことだぞ?」
「え!?」
思わず、ソフィーさんの顔を見る。彼女は視線を上の方に泳がせながら、とぼけた表情を返してきた。
そうか。だから裸だったのか。
ソフィーさんの父親であり、大賢者との決闘でも圧倒的な力を見せつけた筋肉の象徴、デミナス・ケブラ。彼はいつでも半裸だった。つまり、大賢者は義父であるケブラになりきって、全力でこの世界を楽しむつもりだということだ。
「すみません、そのぉ、陸地はまだでしょうか? あまり海が続くと、吉良殿がそろそろ……」
ここでアシハラがテーブルに合流してきた。彼の視線をたどると、揺れの少ない端の方でキラがぐったりと横になっていた。
「ピィ……」
「クーン……」
その傍らで、心配そうに彼女の顔色をうかがう一人と一匹。ピィちゃんは額に手を当てて、サラマンダー君は頬をペロリと舐め、それぞれが彼女に献身的な看病を試みていた。
「じきに、到着するわ。ほら」
ソフィーさんが船首の方へと視線を投げる。見れば、青々とした高台の森が美しい、広大な陸地が水平線に浮かび上がっていた。
「待ってろよ、キラ。陸に上がったら、酔い止めとかそういうの、作ってやるから」
果たしてそんなシステムは存在するのか。離れていて聞こえないだろうに、船酔いに苦しむ娘に対して大賢者は愛の言葉を贈った。
「……ところで、この世界にタバコはあるのか?」
一番の不安点だったのだろう。大賢者の質問には、アシハラも興味深そうに、ソフィーさんの口元に視線を注いだ。
「もちろん」
一家でもナンバーワンの愛煙家である彼女に抜かりはなかった。もののついでに、私も尋ねる。
「お酒は?」
「あるわよ」
頷きと共に心の中でこぶしを握り締める。どうやらこの世界は、私たち向けの仕様になっているらしい。
――ならず者たちを乗せた船が、ゆっくりと港へ滑り込んでいく。一行が最初に降り立ったのは、断崖に守られた白の港町イルハレバナ。愛を紡ぐ物語はこの地より始まる。女神が沈黙を守り続けるリシオンは、彼らの到着を静かに受け入れた。




