78 Angel's Ladder
遥か下に雲海が広がるウッドデッキ。すまして立つ大賢者と、努めて冷静を装う私の顔を見て、先ほどまで激戦を繰り広げていたとは想像もできまい。
「持ってきちゃったの?」
「あ」
大賢者の言葉は、私の手に握られていたものを指していた。魔法界の発明王、エドガン・オットー・アレキサンダーが表紙を飾るその雑誌は、先ほどまで武器として振るわれていたものでもあった。
私はそれを不可抗力として黙殺し、視線を逸らすように改めてデッキを見回した。拠点の中にいるのか、留守を任せたソフィーさんもサラマンダー君も、そこにはいなかった。その場にいるのは――。
「なにこれぇ……どうしてぇ……?」
すでに目を覚ましていたアクセナだけだった。彼女は、毛布と共にプカプカと宙に浮かぶ自分の状況に困惑していた。
「まずは魔法を解いてやらなきゃな」
大賢者はアクセナのいるガーデンテーブルの方へと近づいていった。私もそれに続いた。手に残っていた雑誌は、テーブルの上に置いた。
「どっちから先に解くべきだと思う?」
「浮遊……からじゃないでしょうか?」
答えたものの、自信は無かった。もしかしたら、逆の方が安全だったかもしれない。
私の迷いをよそに、大賢者はアクセナにかけた浮遊魔法を解いた。重力を取り戻した彼女の身を受けたのも、彼だった。
「なになに……なに?」
アクセナは不安そうに周囲に顔を向けた。浮遊は解けても、あの幻惑魔法はまだ効力を保っていた。彼女の目には、相変わらず私たちの姿は映っていなかった。
次の魔法を解く前に、大賢者は人差し指を立てて、私の意識を引いた。
「まぁその、これから真実を伝えるわけだが、あまり錬金術師をナメないように」
「どういう意味ですか?」
「間違いなく、コイツには才がある。そういった者っていうのは、ほとんどの場合……一途だ」
なんだろう。恋の話でもしているのか。
彼の言っていることの真意を測りかねた私は、困惑を表情に出して返すことしかできなかった。
「突飛なことをするかもしれんぞ、ということだけは頭に叩き込んでおけ。それとダッシュ力。いけそうか?」
そこまで言われてピンときた。私は空とデッキの境界線を成す手すりに目を向け、それから腕時計のチェックを済ませ、覚悟を決めた。
「……よし。それじゃあ、解くぞ?」
魔法が解けたのは、大賢者が立てていた指を引っ込めた瞬間だった。
「……えっ!?」
アクセナの目に、周囲がどう見えていたのかはわからない。しかし、目を細める彼女の視界が、定まっていないことだけはわかった。
大賢者によって胸ポケットに入れられていたメガネの存在に気づき、それを取り出したアクセナは、ゆっくりと私たちにピントを合わせた。
「おはよう、『森の錬金術師』さん」
足かけ三か月。私たちは、ようやく巡り合えた錬金術師を歓迎した。
空と私たち。アクセナの視線はしばらくその二つを往復していた。しばらく呆然としていた彼女を、大賢者は流れるように椅子に座らせた。彼は隣に腰掛けたが、私は立ったまま、アクセナからの言葉を待った。
「ここは、どこ……ですか?」
「地獄の門前、ってところだな」
こいつ……導いている。
私の中では、どうしてという疑問よりも、失敗できないという重圧が勝っていた。
「地獄……? 村の皆は!?」
アクセナは勢いよく立ち上がった。同時に、彼女はテーブルの上の存在に気がついた。
「これ、私の……」
「今回は残念だったな。幸い、村の者たちはお前の『やらかし』に気がついてない、というよりお前が作り出した装置の存在そのものを知らない」
彼女は記憶修正をかけられていた。あの装置は、彼女の善意を悪用して生み出されたものなのだろう。大賢者の言っていたことが、一本の線へと繋がっていく。
よほど大事なものなのか、アクセナは両腕を使って雑誌を胸に抱くと、そのままデッキの端へと進んでいった。
私はその後を、すぐには追わなかった。まず先に仕掛け人を通し、彼女の横に立たせてから後を追った。
「綺麗だよなぁ。ここからなら、フェヴロティアが……よく見えねぇな。思ったより」
手すりの下に広がる雲の隙間から、ギリシャはよく見えたが、村の存在までは確認ができなかった。アクセナは黙りこくったまま、青い顔をして地上を見つめていた。
きっと意味があるに違いない、空の旅まであと十数秒。
私は鼻からゆっくりと息を吸って、心拍数を整えることに集中した。
「村の連中は皆、飢えてたよ。お前のことを心配してた、じいさんと孫まで……な?」
大賢者の言葉が、アクセナの心に最後の一撃を与えた。
彼女の瞳から光が消え、代わりに宿ったのは、燃えるような拒絶と祈り。
アクセナは雑誌を抱きしめたまま、手すりの向こう側、何もない虚空へとその身を投げ出した。
叫びも、躊躇もない。
ただ重力に従い、天使の梯子を逆さまに駆け下りていく、一羽の折れた翼。
「――行け、タル!!」
大賢者の号令と共に、私はデッキを蹴った。
――耳を潰すような風の咆吼、頬を切り裂く冷気。
視界が夕焼けに染まる中、ポツンと捉えた孤独の背中。
身を縮め、空気抵抗を下げ、一気に最高速度を出す。
雲を突き抜けた頃には、アクセナの姿はすぐそこにまで迫っていた。
伸ばした指先が、冷たい空気を裂いた。
中身の飛び出た雑誌はバラバラに、
それでも彼女は両腕で抱えた魂を手放さない。
――まずい。
スピードは凶器となる。
身体を大きく広げて距離を取った。
仕切り直しだ。
一刻が、永遠のように長く感じられた。
……こういう時、大賢者だったら、どうする。
あの男なら、きっと……。
最短などはいらない。
正解もいらない。
叩き込め、私の魂を。
痛みは恐れるものではない。
もう距離は取らない。
自分ごと、衝撃を、あの男のように。
慈愛の光に包み込んでやって、然るべし――。
加速の、その先へ。
再び身を縮める。
バラバラに散るページの嵐を突き抜け、
重くなった両手を突き出す。
激突に近い衝撃が胸に響いた。
グルグルと視界が回転する中、
私は真っ白になった彼女の体を強引に抱き寄せた。
「ハッハァ!! よくやったぁ!!」
風よりも大きな、不遜な声がした。
私たちのすぐ近くで、ウインクしながら親指を立てているのは、大賢者レオナルド・セプティム・アレキサンダー。
体勢を整えて、腕時計に圧縮変形させていた飛行用魔道具を、足の裏に装着させる。
生きた心地がしなかったが、どうにか、うまくいって良かった。
ようやく息をつくことができた私と、表紙だけになった魂を抱く孤独の錬金術師。その両方を空へと突き落とした張本人は、凡人の苦悩など知らず、道具なしでの快適な空の旅を楽しんでいた。




