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大賢者の秘書官イシュタル ~何者でもない魔女の一生……になるはずだった~  作者: ふるみ あまた
4章 森の錬金術師の章

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76 善意

 

 フェヴロティアの中央広場から連なった石畳の道は、スキアス家の屋敷にまで続いていた。立派な建物の小さな窓や尖塔が、監視するように村を見下ろしている。堅牢な外壁は厚く、中の様子を一切(うかが)わせない。その佇まいは住居というより、むしろ要塞だった。


「来ちゃったな?」


 大賢者の軽口も鬱陶しく、私たちはその『要塞』の門前に立っていた。季節のせいだけではないだろう。塀の外でうねる枯れた木々が、これから起こる惨劇を予兆しているかのようだった。


「……行きましょうか」


 これ以上、駄弁(だべ)っていても仕方ない。私は共犯者として光栄な一歩を踏み出した。





 遮断された空間の始まりはエントランスだった。高い天井には重厚な木の梁が通っており、窓からは傾いた日の光が鋭く差し込んでいた。改築が繰り返されているためか、床は真新しく、よく磨かれた大理石調で、そこから歴史の匂いはしなかった。


 複雑な装飾は廃され、掃除のしやすさや移動の効率だけを優先したようなその空間は、邸宅というよりオフィスを思わせた。


「つまらない家だろ?」


 かつては私も、機能性だけを詰め込んだ環境で暮らしていた。大賢者の問いかけに、私はすぐに答えることはできなかった。あの日、掴まれた首根っこが、急にこそばゆく感じた。幾分か柔らかくなったその箇所を触ってから、私は胸を張って答えた。


「ですね」


 時代と逆行する私の言葉に、我が主は大層お喜びになった。彼は少年のように無邪気に笑いながら私を見下ろしてきた。その瞳には、実弟に向けられていたものと同じ、深い慈愛が宿っていた。


「……さて、行くとしよう」


 私は力強く頷き、先陣を切る大賢者の背中を追いかけた。





 建物内は静寂と冷気に包まれていた。防寒魔法が施されていない現状から、この領域は大賢者が支配したということで間違いなさそうだった。


 廊下にはコツコツと、私たちだけの足音が静寂を侵食していく。


 進んだ先は、曲がり角になっていた。そこへ差し掛かると、ようやく人の気配がした。


 ――ドンドンドン、ドンドン。


 重い扉を、内側から叩く音だ。閉じ込められているのだろう。なりふり構わぬその音は、激しく廊下に反響していた。


「二人とも無事で、何よりだ。さぁ、この先、何が待ち受けているのかな?」


 白々しい。


 思えば今の私は、問題文を知らぬまま解答だけを突きつけられているようなものだ。そんな理不尽を強いる彼に付き従えるのは、地球上で私だけじゃないだろうか。


「……やりすぎないでくださいよ?」


 分け与えられたばかりの慈愛の精神をもって、私は主君に懇願した。


「それは向こうの出方次第」


 他人にはとことん冷徹な、危うい二面性を持つ大賢者は私の進言を切り捨てて、音の発信源へと近づいていった。





 ドアは蹴破るもの。


 ノブを掴むという人間的な選択をすることなく、大賢者は重厚な扉を内側へと捻じり込んだ。現代社会ではなかなか聞くことのできない原始的な轟音の先、部屋の中央には、濃厚な錬金術の匂いを放つ大きな物体が鎮座していた。


 上部には、何かを流し落とすためのすり鉢状の箱。足元には、踏み込まれるのを待つペダル。周囲は剥き出しの、鈍い銀色をした物質で継ぎ接ぎにされた機械。側面から突き出ているのは、誰かさんが力任せに折り取ったレバーが、ピタリとはまりそうな突起。


 睨んだ通りだった。村人たちから魔力を貪る装置がそこにはあった。


「ひ、ひぃぃっ!!」


 床に這いつくばる二人の悪党は、揃って震えながら私たちを仰ぎ見ていた。当主が抱えるカバンからは、隠しきれなかった橙色の石が、バラバラと無残にこぼれ落ちていた。


「……辞世の句でも、詠む?」


 再会のジョークはあまりにも黒かった。まさに大賢者ブラック。


「冗談だよ。別に、命までとりゃしねぇさ……さて、なにか言いたいことはあるかな?」


 まったく意味合いが変わっていない、穏やかな言い直しに私は戦慄した。私にできることは、目の前の男たちが最期の選択を誤らないよう祈ることだけだった。


「……笑わせるな、若造。この村を、民たちを、今日まで食いつながせてきたのは誰だと思っている!? 資源を削り、形を変え、そうしてようやく維持できる生活があるんだ!! 貴様のような若輩者に、この泥をすするような経営の、組織維持の重圧がわかるものか!!」


 当主の必死の咆哮が、冷え切った部屋に虚しく響いた。それを真正面から、大賢者は拍手して受け入れた。


「お前が言っていることは正しい! まったく正しい! ただし!」


 重ね合わせていた手のひらの動きが止まった。少年のように笑っていた顔は、もうそこになかった。覇気を纏った大賢者の背中は、獲物を追い詰めた獅子そのものだった。獣は一歩、音もなく踏み出した。


「……泥をすするのは民ばかりで、維持できているのはお前の生活だけ、だがな?」


 絶望を突きつける獅子の歩みは、そこでピタリと止まった。


 静寂の中、大賢者は顔の横で人差し指を立てた。全員の視線がそこに吸い寄せられた。


「ズワイアッガー!!」


 意味不明な叫び声と共に発光が生じた。目の裏に突き抜けるような痛みを感じたあと、後頭部からぷつぷつと毛穴が開くような感覚と同時に、今日の疲労が抜けていった。


 未知の回復魔法か。一瞬にして、それが間違った考えだったことに気がついた。


 当主とその側近は白目をむき、鼻や口から透明な液体を垂れ流しながら固まっていた。その表情は、快楽と恐怖を同時に焼き付けられたかのように、歪に強張っていた。


「うーむ……人の魔力を宝石に変えて儲けようなんて、実に素晴らしい発想だった。そして思想も見事だった。こんな聖人、見たことがない。お前は今から『自己犠牲の塊のような聖人君子』だ。どうすれば村人全員が豊かで、健康に暮らせるか。それだけを考えて、実行に移すように。教育なんかも、力を入れないとな。まぁ、自ら泥をすすって、手本を示していけばいいんじゃない? 頑張れよ、統治者様!」


 私は今、目を背けたくなるほどのヤバい魔法を目の当たりにしている。記憶修正の領域を越えた、自己消失魔法。極刑よりも残酷な、大賢者による私刑が執行された。


 当主への伝言を伝えた大賢者は、立て続けに側近の方へと手を伸ばした。


「お前はそうだな……『清貧な実務家』ってところだな。今後は、一ユーロセントたりとも無駄を出さず、そのすべてを村の福祉に捧げること。それだけを人生の目標にしろ。まずは、その似合わないローブを売ってきたらどうだ? これからは、素晴らしい当主様と二人三脚の人生だ。汚れ仕事も増えることだろう。もっと動きやすい服に着替えてこい」


 ズワイアッガー。それは、この世のどんな地獄よりも恐ろしい、闇の光魔法だった。


 終わった。事件も、二人の人格も。


 正論を吐いた男は、その言葉通りの存在へと作り替えられた。その果てに待つのが救済か、あるいは終わりのない罰なのかは分からない。


 善意に溢れた統治者と側近が築くこれからのフェヴロティアは、きっと、私たちが訪れた時よりも――ずっと美しくなることだろう。

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