72 フェヴロティア救出計画
私個人の話に限り、一時的なパニックも収まり、ようやく心拍数も正常を取り戻した。
デッキには空腹を刺激するお出汁の匂いと食器のぶつかる音が響いていた。
治療を終えたばかりの名も知らぬ若い女性は、現在、絶賛幻惑魔法にかけられている真っ最中であった。
私たちがすぐ側で取り囲んでいても、彼女はガーデンテーブルの食事だけに没頭していた。大賢者の施した魔法によって、彼女の瞳には私たちの姿が映っていない。
「おいしい……なにこれぇ……なにこれぇ?」
幻惑魔法と大別したが、原理は一切不明だ。しかし、それがもたらす心地の良い隔離は、彼女の生命を確実に繋ぎ止めていた。
第三者のジャッジによって、アシハラの料理が確かな味であると証明されたことに、私は密かな誇らしさを感じていた。だが、同時にやるべきこともなく手をこまねくしかなかった。
用意されたそぼろ大根とお粥を綺麗に平らげると、彼女は右手で何かを掴むようなしぐさを見せた。
その直後、鋭く高い音がアルケミーな香りと共に空へと抜けていった。私の隣に立つ大賢者が、アルミ缶の蓋を開けた音だった。
大股で女性のもとへ歩み寄った大賢者は、テーブルの上に空のグラスを出現させると、缶に入っていた黒い液体を迷いなく注ぎ込んだ。
「これこれ!! これがなくっちゃ!!」
どうやら、食後のチェリーコークが彼女の日常的なルーティーンだったらしい。顔を輝かせながらグラスを掴んだ女性は、一缶分が丸々注がれた中身を一息で飲み干した。
――その直後だった。
糸が切れたように崩れ落ちた彼女の身体を、間一髪で支えたのは大賢者だった。
「おんな、しんだ!!」
そうではない。血糖値スパイクである。
「大丈夫、気を失っただけだから」
私はひとまず、女性が絶命したと思い込んでいるキラを安心させた。アシハラが静かに動き出し、拠点の中へと入っていった。大賢者は小さく笑いながら、大きな眼鏡を外して女性の胸ポケットにしまい込んだ。
毛布に包まれた女性はフワフワと宙を漂いながら、今や夢の世界への旅を楽しんでいた。六角形のガーデンテーブルでそれを見守りながら、私たちは少し早い昼食をとっていた。
「全部で三百人ちょっと、ってところだ。アシハラ、炊き出しを頼めるか?」
先の先の、そのまた先の、先端過ぎてどこまで読み尽くしているのか分からない大賢者は、フェヴロティアの村で空腹に苦しむ人々の救出計画を発表していた。
あとは彼の指示に従い、動くだけ。計画を確実に完遂させるため、私は神経を研ぎ澄ませて大賢者の言葉を待った。
「三百……食材は現地に?」
さすがのアシハラも、無から食材を生み出すことはできない。彼は安請け合いせず、資源の確認という基本を怠らなかった。
「ある。この規模の村だと全員が顔見知りだ。若い連中は俺がオリーブ畑から連れてくる。そいつらの回復を優先させて、作業員に回そう。タルはアシハラのサポートだ」
私の役目は以上だ。となると、心配なのはキラとピィちゃんの任務になってくる。
「年寄りをかき集めるのは、お前らには難しいだろうなぁ……」
「ナメるなぁ!!」
「ピィッ!!」
これも大賢者の作戦なのだろう。まんまと挑発に乗った二人は、威勢よく抗議の声を上げた。
「まぁ、やるだけやってみろ。お前らは村中を駆け回ってるだけで、十分に効果はある」
田舎というのは情報の伝達が早い。彼女たちは目立つ容姿をしている分、目に留まるだけで村人たちに「何かが始まっている」と思わせる宣伝効果は確かにある。
炊き出しの現場は、環境を考えれば広場になるだろう。そこに集まり、意識を取り戻したお年寄りたちが、まだ姿を見せない隣人の情報を与えてくれれば、あとは驚くべき速度で問題は解決するはずだ。
私の思考を見透かすように、大賢者の鋭い視線がこちらを射抜いた。
「これでマッピングは完璧だな?」
私は素早く首を縦に振った。
「で、サラマンダー君とソフィーは留守番」
「キューン……」
「留守番も大事な任務だ。ソフィーは一人じゃいられないんだから。看病だってろくにする気もねぇし……とにかく、ソフィーを頼むよ。帰ってきたら、上質な薪をやるから」
悲しげな鳴き声をあげるサラマンダー君を尻目に、散々な言われようをしたソフィーさんは黙って空いたお皿を集め始めていた。
「やってやるぞぉぉ!!」
キラは勇みながら、ニンニクたっぷりのチーズパスタをすすり上げた。彼女のおでこに跳ねたソースを拭き取ったのは、もちろんアシハラだった。




