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大賢者の秘書官イシュタル ~何者でもない魔女の一生……になるはずだった~  作者: ふるみ あまた
4章 森の錬金術師の章

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71 初めての回復魔法

 

 店の中まで混沌としていたフェヴロティアの風景は一瞬にして、大空に浮かぶ見慣れたウッドデッキへと変わった。


「どちらへ?」

「……ションベン」


 そんなわけはない。到着早々、一人身軽に動き出した大賢者は玄関の扉をくぐっていった。皆を呼びに行ったのだ。となれば、デッキに残された私の役目は彼らの到着を待つこと。


「うー……うー……」


 そしてこの、見知らぬ女性が暴れたりしないように見守ることだ。大小三つの人影が玄関から飛び出してきたのは、それからすぐのことだった。


「はい、どうしましたぁ!?」

「彼女を診てもらえますか? それから、私の補給食を。簡単な、回復魔法が使える程度のものでいいので」


 アシハラは泥で汚れた作務衣のまま膝をつくと、太い指で女性の瞼をめくり、その目をじっと覗き込んだ。女性はわずかに抵抗するそぶりを見せたが、木彫りの力士像のようなアシハラは、片腕だけでそれを優しく押さえ込んだ。


「……あ~、はいはい。軽い栄養失調だね。大根煮てきます。吉良殿、イシュタル殿たちにバナナを。ピィちゃん殿は、俺と台所へ。お米の粉砕をお願いします。その方が早くお粥が作れるから」

「おう!!」

「ピィッ!!」


 アシハラの指示のもと、私と急患以外の全員が一斉に動き出した。


 栄養失調……なるほど、これで謎が解けた。フェヴロティアの村人たちは動かなかったのではなく、動けなかったのだ。頬がこけていたのも、そのためだ。


 合点がいったところで、自慢の美しい金髪ごとバナナをモグモグ食べているキラが戻ってきた。


「異常なしっ!」


 頼まれていない毒見を済ませたキラは、口に入り込んでいた髪を直すと、持っていたバナナを一房まるごと差し出してきた。


「いや、そんなに……そんなには、いらない」


 冷静に返すと、キラは挑発的に笑ってバナナの皮を剥き、真っ白な実を私の口元へと突きつけてきた。


 私は差し出されるまま、バナナにかぶりついた。腹の下に、わずかに魔力が湧き上がったのを感じた。これでようやく、女性の額の治療ができる。再び私は指先へと意識を集中させた。


「おでこの傷を治すから。そしたら、彼女にも食べさせてあげて?」

「うん!」


 短く疎通を交わし、私は白く発光させた指で女性の患部にそっと触れた。


 回復魔法は呼応が基本。何があったのか、彼女の細胞の記憶に呼びかける。応じてきたのは、断片的な映像だった。


 天井が吹き抜けになった、古いビルトインガレージ。


 村では見かけなかった建物だが、彼女の家だろうか。失神するように倒れ込んだ彼女は、床に額をぶつけた。彼女以外で現場にいたのは……。


「うー!! うー!!」


 大人しく治療を受けていた女性が、突如として暴れ出した。私は魔法を中断させ、注意深く彼女の様子をうかがった。


 変化は、実にわかりやすかった。先ほどまで紫色だったはずの患部が、今ではどす黒く光っていた。


「……イジられちゃってるね、これ」


 いないと思っていた大賢者が戻ってきた。見上げると、なぜか彼はレンズの大きなメガネをかけていた。


「俺が引っこ抜いてやる。あんまり知らんでやると、崩壊しちゃうから。精神が」


 眼鏡姿の理由は分からなかったが、彼が何をしようとしているのかは理解できた。記憶修正魔法の無効化だ。


 暴れる患者の胸ぐらを掴むと、大賢者は患部から黒いゲル状の塊を言葉通りに引っこ抜いた。手のひらで油のようにへばりつき、うねうねと(うごめ)くその塊を、彼は黄金の輝きの中で浄化させた。


「ほいっ」


 サイズの合わない眼鏡をクイッと引き上げ、大賢者は私に治療の続きを促した。


 学べば学ぶほど、この男の凄さがわかる。目の前で私に笑いかける男は、実際よりももっと、はるか遠くにいる。『生きる伝説』の圧倒的な理力に痺れていた私は、返答が数秒遅れた。


「……はい」


 私は安心して、患部に手を当てた。怪我は軽い皮下出血。傷そのものを立体として捉え、その根っこの部分に、針の先よりも細く絞った魔力をほんの少しだけ触れさせる。


「……ふぅ」


 重圧から解放され、小さく息をついた。あとは活性化された彼女の自然治癒力が、傷を癒してくれるだろう。


「なかなかスジがいいじゃねぇか。さすがは大賢者の秘書官」


 世界一強い男からのお墨付きは、なんだかんだ言って一生忘れられないものになった。治療を終えたあとの私の目には、大賢者の姿が以前よりも一回り大きく映るようになっていた。

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