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大賢者の秘書官イシュタル ~何者でもない魔女の一生……になるはずだった~  作者: ふるみ あまた
4章 森の錬金術師の章

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70 絶対に異変が起きている村 vs 絶対に異変を認めない大賢者

 

「わぁ……」


 思わずこぼれた言葉にならない感嘆は、澄んだ空気に溶けていった。


 昨夜までの雨が嘘のように、空には一点の曇りもない。山間に抱かれたフェヴロティアの村が、降り注ぐ陽光を浴びて輝いている。その様子は神話の挿絵よりも美しく見えた。


 石造りの家々の壁を縁取るのは、雨の名残でしっとりと濡れた深い緑の蔦。庭先では、早咲きのアーモンドの花が淡いピンク色の霞のようにたなびき、風が吹くたびに、清涼な冬の香りと、春を待ちわびる土の匂いが混じり合って鼻先をくすぐってきた。


 頂上付近に建てられた立派なお屋敷は、この村の統治者のものだろうか。村の中央へと続く石畳の道が曲がりくねって、そこにまで続いているようだった。


 遠くからは山羊の鈴の音が聞こえてきた。


 すべてが完璧で、完全な調和。


 静寂が心地いい。


 どこまでも静かで、のどかな村。老後はこういう所で過ごしたい。


 それにしても静かすぎる。


 ……おかしい。


 瞬間、私は言いようのない悪寒に襲われた。


 生活音が聞こえない。村の人々が薪を割る音や、主婦たちの賑やかな話し声、子供たちが遊んでいる音すら、一向に耳に入ってこない。


 視界を動かすと、少しだけ坂になった道沿いに広場があった。陽だまりになったベンチには、一人の村人が腰掛けていた。男はまばたき一つせず、太陽の光を取り入れるように口をぽっかりと開いたまま、彫像のように固まっていた。


 私は緊急性を感じて小走りに近づいたが、大賢者はどこまでもマイペースに、後ろからゆっくりと付いてきた。


「すみません、あの」

「あー……」


 返ってきたのは唸り声。男はまるで屍人のようだった。


「な……何が……一体、何が起こって……るんですか?」


 どう考えても、現在進行形で事件が起きている美しい村、フェヴロティア。これは果たして現実なのだろうか。私は答えを求めるように、隣に立つ大賢者の横顔を見上げた。


「うむ。どうやら、ちょっと識字率が低い村のようだな」

「えぇ!?」


 そうじゃないし、その例えも良くない。


 不測の事態にまごつく私をよそに、大賢者は流れるような身のこなしで男の隣に腰掛けた。


「おじいちゃん、元気ぃ? ダメか。やっぱ田舎は、人が少ないのかなぁ? ずっと喋らないでいると、こうなっちまうんだろうな」


 お前、正気か? 正気じゃないのは村人の方だけど。


 いや、そうではなく。完全に異常事態が起きている。それなのに、なんだその態度は。今度は何を隠しているんだ、こいつは。


 観光気分はおしまいだ。私は今一度、村全体をよく見てみた。だが最初に視界に入ったのは、どうしたって近場の二人だった。


 大賢者は村人にタバコを勧め、村人は『いやいやいや』と手を振ってその誘いを断った。


「何か、わかったかぁ?」

「コミュニケーション取れてますよね?」


 大賢者は笑いを堪えるようにタバコの煙を吐き出しながら、私に向けていた視線を山の頂上の方へ逸らした。


「腹減ったなぁ?」


 ぐぅ、と情けない音を立てて私のお腹が鳴り出した。朝食は、さっき食べたばかりだというのに。これは絶対におかしい。一体この男には、世界がどういう風に見えているというのだろうか。


「他の人たちの様子を見ましょう」


 男に意識はある。私は石畳の道を蹴り、真相の解明を急いだ。





 村中を駆け巡ったが、村で暮らす人々は頬がこけ、広場で会った男とまったく同じ状態にあった。調査中も大賢者の奇行が目立った。


「どうも、お姉様方。初めまして、大賢者です」

「わー……」


 庭で井戸端会議中だった奥様たちは、大賢者の挨拶として手の甲にキスをされると、頬だけをボッと赤く染めた。


「おう、坊主ども。ちょっと集まれ。珍しいものを見せてやる。日本の動物の写真だ。どうだ、かわいいだろう?」

「やー……」


 大賢者に差し出されたポコ蔵の睾丸の写真は、子供たちに大人気だった。


「バー……」


 明らかに音階の低い鳴き声のヤギの前では特に何もせず、


「懐かしいなぁ。昔、ユリエルが隠れて飼ってたオス猫に、鳴き声が似ていやがる」


 柵越しに、腕を組みながら弟との思い出話をするばかりだった。


「……何を、知っているんですか?」

「ちょっと変わった村だが、まぁいいところだな。さぁて、走り回って喉が渇いただろう。飲み物でも買いに行くか」


 全然話を聞いてくれない大賢者は、この村に起きている異変を絶対に認めなかった。





 大賢者が足を運んだ食料品店は、村の中心地にあった。店内に入ってみると、呻き声を上げる村人たちの姿がそこかしこに見られた。その中でも、一際目を引く存在があった。


「うー……うー……」


 その屍人は、チェリーコークのケースの下敷きになって、もがいていた。


「ケガしてるなぁ。タル、治してやれ」

「えぇ?」


 もう何が何やら分からなかった。村人たちは、怪我どころじゃないというのに。


「いいから、早く。あ、ケースはそのままにしといた方がいい。暴れるから」


 困惑しながらも、私は主君の命令に従った。女性の額には内出血のような跡が見られた。私は女性のそばに跪き、まずは指先へと意識を集中させた。


「……あれ?」

「な? 腹が減ると、魔法ってうまく使えないだろう? いったん戻るか。この村はどうにも腹が減る」


 大賢者は私の肩に手を置いて、倒れていた女性ごと拠点への転移を行った。

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