66 【森の錬金術師】
開け放たれたシャッターから漏れ出た光が、夕闇に包まれた森を照らしていた。外から流れ込む冷たく湿った空気と、ガレージにこもった鉄とオイルの匂いが混じり合う中で、一人の若い錬金術師が黙々と手を動かしていた。
ギリシャ内陸に存在する小さな集落フェヴロティア。そこから少し離れた森に住むアクセナは何か月も前から、とりつかれたように開発に没頭していた。この日、彼女はついに一つの試作品を生み出した。
「……ふぅ」
最後のボルトを締めあげ、鼻にずり落ちたメガネをかけ直しながら、アクセナは握りしめていた工具を作業台の上へと置いた。乱雑に散らかった台の隅には、端の擦り切れた雑誌が置かれていた。
表紙で微笑む、ドイツ出身の中年男性。一仕事を終えたアクセナは、不器用な笑みを浮かべながらその男性の顔写真に触れようとした。しかし彼女は、油にまみれていた自分の指に気づいてすぐに手を引いた。
「やぁ、今日もやってるな」
不意の訪問者の声に、アクセナは一瞬体を硬直させた。見れば、入り口に立っていたのは一人の男だった。その初老の男は、食料品の入った紙袋を胸に抱えていた。
「あぁ……どうも」
相手が顔なじみだと気づいて、アクセナは少しだけ肩の力を抜いた。
「たまには村にも顔を見せてくれよ。子供たちも『森の錬金術師』に会いたがっている」
大部分の大人たちと違って、集落の子供たちは毒気のないアクセナによく懐いていた。フェヴロティアの子供たちが大切にしているおもちゃは、すべて彼女が無償で修理しているからでもあった。
「すまない、その……このところ、セレナがうるさくて。『アクセナは来ないのか』って、家に遊びに来るたびに言ってくるものだから、たまらんのだよ」
五歳になったばかりのセレナの純粋な笑顔を思い出しながらも、アクセナはガレージの外をチラチラと気にしていた。
「そうですね……すぐに、とはいきませんが、じきに」
男はため息をつき、ガレージにある巨大な装置を見たが、それについては何も触れず、抱えていた袋を作業台の上に置いた。
「……若いからって、無茶はするなよ。食事はちゃんと摂った方がいい」
「すみません。いつもありがとうございます」
男は軽く手を振ると、ガレージを出て雨の森へと消えていった。アクセナは数少ない理解者が去っていく姿を疲れた脳でぼんやりと見届けた。
「……あ、いけない」
辛うじて意識を取り戻したアクセナは、男の残していった袋を持って冷蔵庫の前へ足を運んだ。
「そうか、ハハハ。あ、あっ? あぁ……もうっ」
手を洗う前に触った袋と冷蔵庫の扉が油でベタベタになってしまった。もうじき依頼主も姿を現すことだろう。優先順位がごちゃごちゃになったアクセナはとりあえず、男が持ってきた食料品を袋ごと冷蔵庫の中に押し込んだ。
次にアクセナが向かったのは、同じガレージ内にある古びた革張りのソファだった。ひじ掛けに乗った使い古されたタオルに洗浄液を染み込ませると、彼女は丁寧に手の汚れを拭い取った。
「よしっ」
指先を鼻に近づけて、匂いで仕上がりの確認をした彼女は、もう一度シャッターの外側に広がる世界に目を向けた。依頼主はまだ来そうになかった。
開発というマラソンを走り切ったアクセナを眠気が襲った。ここで眠るわけにはいかない彼女はソファの誘惑を断ち切るために、テーブルにあった綺麗とはいえないグラスを手にして、再び冷蔵庫へと向かった。
彼女の窮地を救ったのは、相棒のチェリーコークだった。冷蔵庫の上に置いたグラスの中で炭酸飲料の泡が弾け、飛び散った水分が彼女のしているメガネのレンズに付着した。
「メガネも洗わなきゃ」
グラスに入った黒い液体を一息で飲みきり、甘味と刺激で脳を覚醒させたアクセナは、流し台へと移動した。冷蔵庫の上に放置したグラスではなく、愛用のメガネを洗うためだった。
「試作品が出来たようだねぇ」
葉巻の嫌な臭いと共に、彼女の背後から待ちわびていた依頼主の声が響いた。水に濡れたレンズを袖で拭いたために、振り返った彼女の視界に映った男の姿は少しぼやけていた。
男の名はスタリオス。フェヴロティアを代々統治するスキアス家の当主である。高圧的な立ち振る舞いとしわひとつない襟付きのローブを着こなす壮年の姿は、アクセナとは対極にいる者のそれだった。
「あ……すいません、今……たった今」
アクセナは乱れた髪を整え、目上の人間に敬意を表した。スタリオスはそんな彼女を鼻で笑うと、ふかしていた葉巻を床に捨て、よく磨かれた黒い革靴で踏みつけた。
「あれが土の生成装置だな? 『森の錬金術師』の試作品を、見せてもらおうか」
「……はい」
統治者の依頼を完了させれば、集落の大人たちにも少しは認めてもらえる。アクセナが自分とは相容れない存在の依頼を受けた理由は、そう考えてのことだった。土の生成は魔法でさえ不可能とされ、現代の錬金技術をもってしても未踏の分野だった。魔法界にとっての大きな偉業は、片田舎に住む錬金術師のちっぽけな希望によって、確かな一歩を踏んでいた。
洗練された魔道具とは違う武骨な仕上がりである試作品の前に二人は立った。スタリオスに催促されたアクセナは躊躇わずに装置のレバーを引いた。ガレージを支配したのは、他の一切の音を遮るような轟音だった。
ガタガタガタガタガタ……。
「……めろぉ!! ……ぐ!!」
「え!?」
アクセナは聞き返した。音が大きすぎて、集落の権力者が何を言っているのか全然わからなかったためだった。空気の読めない小娘に嫌気が差したスタリオスは、自ら装置のレバーを動かして機械を止めた。
「はぁ……はぁ……それで? 成果は?」
息を切らし、肝心の結果を気にしたスタリオスに応えるため、アクセナは装置の下側に取り付けたペダルを踏んだ。すると機械の上部に取り付けられた、すり鉢状になった金属箱の底が開いた。
ジャラジャラジャラジャラ。
箱からは透き通った橙色の小さな石が降り注ぎ、二人の足元に積まれていった。この結果を見た二人の反応は対照的だった。
「おぉ!」
「すみません。まだまだ土には程遠くて……それに機械が吸い上げる力が強すぎて、周囲の生体に含まれる魔力も吸ってしまって……」
アクセナの報告の正しさは、噛み合わない二人の腹が同時に鳴ったことで証明された。
大気中に含まれる魔力を取り込み、バクテリアを含んだ生きた土を生成する。理論上は成功するはずだったが、現実はそう甘くはなかった。しかし外気の魔力を吸収するという、大賢者クラスでしか体現できない技術を機械が行うというだけで、天地がひっくり返るほどの大発明であることをこの二人は知らなかった。
「空腹か。それだけで済むならば、結構じゃないか……まったく素晴らしい! これこそが、私が求めていた人工魂石だ!」
「……え?」
「あっ」
本性を現すのが少し早かったスタリオスは、慌てて睡眠誘発の魔法をアクセナにかけた。疲れ果てていた彼女にはそれが抜群に効いてしまった。
「……疲れただろう? 今日はゆっくり休むといい。目が覚めて、すべてを忘れ去った『森の錬金術師』は、もっと素晴らしい魂石を作り出すことだろう。おっと、土だったかな? アハハハハハ!」
アクセナが最後に聞いたのは、自らが生み出した生成装置の振動音だった。その音はあまりに大きく、彼女のかけていた大きなメガネが床に落ちても、誰も気づくことはなかった。装置を運び出す前、スタリオスが彼女にかけたのは記憶修正の魔法だった。朝になって意識を取り戻したアクセナには、強い空腹感だけが残されていた。




