63 大晦日のはじまり
縁側に腰かけた私のすぐそばでは、大賢者がポコ蔵のお腹をしつこく撫でていた。私は何をするわけでもなく、風景をただ眺めていた。
家事というのは毎日行われる。それは至極当然のことだが、一年の最後であるこの日もアシハラは庭で洗濯物を干していた。しかしながら、魔法を使わずに洗濯物を干すという行為は、魔法界では少数派である。
私の母親も、毎日のように外で洗濯物を干していた。実家では当たり前の光景だったため、当時は何とも思わなかったが、大人になってみると、その理由が不思議に感じられるようになった。だから私はアシハラに聞いたことがある。
「なぜ、魔法を使わないんですか?」
帰ってきた答えは簡単だった。
「その方が、着た時の肌ざわりがいいでしょ?」
確かにその通りだ。太陽の力で乾いた洗濯物はほんのりと暖かく、着心地がいい。国際魔法警備局を退局して知ったのは、平穏な日常への感謝、そして母の愛だった。
「ピュイ……」
平穏な朝の時間に、ピィちゃんの帰宅の挨拶が庭先から弱々しく響いた。
「お帰り……ってキラ、どうしたの!?」
ピィちゃんに手を引かれてやってきたキラは、出かけていった時の姿に比べ、変わり果てていた。私は驚きの声をあげ、彼女に近づいた。
「山で滑った。もうなんか、汚れたし、嫌になって、帰ってきた……」
よほどショックだったのか、キラの声には力がなく、いつもの元気まで失われていた。綺麗な長い髪は台無しに。新品のローブやカメラ、愛用のポーチからネックレスまで、すべてが泥まみれという有様だった。私は彼女が身につけていた道具類を手早く脱がせた。
「……出たな」
縁側に座ったまま、たっぷりと間を置いてから事情通ぶったのは大賢者だった。
「出た、っていうのは?」
茶番の導火線に火を点けたのは他ならぬ私だった。まさかこの状況からふざけだすとは思いもしなかった私は、間抜けにも大賢者の言葉を拾ってしまった。
「『ひっぱり』じゃよ。お山に入った子供たちの足を引いて転ばせる……決して目には見えぬそのモノノケを、いつしか人々は『ひっぱり』と呼ぶようになったのじゃ」
「こえぇぇぇ!!」
「ひぇぇ……」
なぜかキラと一緒になって大賢者の法螺話に怯えていたのはポコ蔵だった。地元出身の妖怪でさえ知らないなら、嘘が確定する。ここで私は大賢者劇場の幕を開いてしまった自分に気付き後悔したが、時すでに遅し。ため息をつきながら傍観する態勢に入るしかなかった。
「ムガ、本当に『ひっぱり』はいるのか!?」
さすがに父親への疑念は抱いていたキラだったが、彼女はすがるようにアシハラに尋ねた。
「どうだろうねぇ。山にはヤバい連中がいっぱいいるからねぇ。『サンダル咥えヤマネコ』とか」
おとぼけオジサンのスイッチが入ったのか、アシハラは洗濯物を干す手を止めず、生返事をするばかりであった。
「なんだよ、それ。こえぇなぁ……もう山に遊びに行くの、やめようかなぁ」
「そこまで怖がる必要はないぞ? お山には、可愛い動物もたくさんおることじゃし。例えば、おパンツ……『おパンツ被りおじさん』とか」
可愛くないし、気持ち悪いし、そんなものは妖怪でも何でもなく、ただの変態野郎だ。大賢者のおふざけはピークに達した。
ここでようやく、男どもの悪意に気が付いたキラは目つきを鋭くさせ、わざわざポーチから杖を取り出して構えた。
「『おパンツ被りおじさん』は、お前だぁ!!」
キラは洗濯かごの中にあった自分のふんどしを浮かせると、それを大賢者ではなく、作業中だったアシハラの顔に絡ませた。
「ちょ、なんで!? 前見えないって!! ゴメンゴメン、謝るから!! ゴメンって!! 一旦やめて、それ!! 一旦、イッタンゴメン!!」
ヘラヘラと笑う三バカに頭を抱えたが、最終的には私もその輪に加わっていた。もはや、何が何やらよくわからない。間違いないのは、大晦日になってもレオナルドファミリーは騒がしいということであった。
キラの心のケアが済んだ後は、その様子を眺めていたピィちゃんが身体のケアを始めた。彼は誰に頼まれるわけでもなく、奥で休んでいたソフィーさんを庭へと引っ張り出してきた。眠りこけていたのか、サラマンダー君はそれに少し遅れて、たどたどしい歩みでやってくると、大きくあくびをしながら伸びをして、そのまま縁側に座り込んだ。
「……はい、綺麗になったわよ」
ソフィーさんは手に持った自作のポーションで、キラの全身と魔道具すべてをあっという間に洗浄した。
「ありがとう、ソフィー! ムガ、これよろしく!」
元気を取り戻したキラは、ポーションで濡れたローブを潔く脱ぎ捨ててアシハラに押し付けた。彼女はシャツ一枚、ふんどし一枚という、おおよそエルフとは思えない格好になると、縁側にいた大賢者の横に座り、湿った装飾品を大事そうに並べて乾かし始めた。
「は~い、これでおしま~い」
アシハラは増えた仕事も表情一つ変えず、すぐにこなした。
「擦り剥いてんじゃん」
さすがの大賢者は、キラに「治して」とせがまれる前に傷を見つけ、魔法で治療を施した。それまで大賢者の執拗な愛を一身に受けていたポコ蔵は、キラに嫉妬と対抗心が入り混じったような眼差しを向けた。反対にキラは、どうだと言わんばかりの挑発的な視線をポコ蔵に返した。
「大賢者さん!」
「どうしたぁ?」
「わたくしは、膝の軟骨が痛みます!」
「うん、太りすぎだねぇ」
「あぁ~……」
仮病なのか本当なのかは本人にしかわからないが、私から見て涙ぐましいと思えたポコ蔵の訴えは、あえなく無視された。あんぐりと口を開けて嘆くポコ蔵を慰めたのは、彼の口元をぺろりと舐めたサラマンダー君だった。




