153 木の芽時、お昼時
その話題はソフィーさんの利益にはならない。個人的な愚痴に近いものであり、自分がスッキリしたいがためだけのものだ。彼女とは気心の知れた仲になったとは言え、口に出すのは憚られる。
私はもう一度、冷めたコーヒーを口元に運んだ。最後に残っていたひと口は、不自然な酸味を醸していた。
「おかげさまで、いい勉強になりました」
ソフィーさんは精神的にすり減っていた私を心配し、こうして一緒に来てくれた。これ以上は、余計な負担をかけたくない。彼女とは目を合わせず、イブが寄りかかっているシュガーポットを見つめながら、私は当たり障りのない言葉を口にした。
にわかに、得も言われぬいい香りが漂ってきた。顔を上げてみると、彼女がふっと漏らした吐息がそよ風のように舞い、私の頬をかすめた。
「……そう。無理にとは言わないけど、ちょっと残念かも。でも、本音を言うことって、そんなに難しいことかしら?」
彼女の慈悲を無下にするどころか、失望させてしまった。罪悪感から視線を落とし、よく考えてみる。どんなに仲を深めても、なぜ私は心の壁を作ってしまうのか。ひとつの思想を妄信していた古代オルセメスの住人と、自分が重なって見えた。
好きな人や尊敬する人を知り、より深い仲になりたいのであれば、もっと、いや、少しだけ、自分をさらけ出すべきなのかもしれない。朧気ではあるが、私の中に確かに存在するなにかが、分厚い壁に綻びを生じさせた。
大きく息をついて、顔を前に据える。目の前には、すべてを慈しむような眼差しを向けるソフィーさんがいた。その澄んだ瞳を直視できなかった私は、彼女の背後に流れる緩やかな人並みへと視線を逸らし、ゆっくりと、定まらない思いを継ぎ接ぎにした。
「そうですね……色々とあって、この街は一度滅びましたよね。それが、どうしても自分と重なってしまうところがあって」
信じていた機関は私を見放した。世界のために自分を殺し、任務にあたっていたあの頃の私は、さながら千年前の管理されたオルセメスの住人のようだった。
「現代的な視点から見て、決していい社会体制だったとは思いませんけど、それでも当時の人々にとってはそれが当たり前というか、むしろ、こう……『正しい』ことをしているんだと、信じて疑わなかったんじゃないかな、なんて思ったりもして」
ソフィーさんはこくりこくりと、まとまらない私の話を飲み込むように頷いてくれていた。
『お前はもう、道具じゃない』
馬車の中で大賢者に言われた言葉が、ずっと頭から離れなかった。
嬉しかった。彼だけではない。キラもアシハラも、ピィちゃんやサラマンダー君、そしてソフィーさんまでが、どんな小さなことであっても、私なんかの変化を見逃さずに気にかけてくれている。
かつて妄信していた思想は脆くも崩れた。滅んだはずの私は今、彼らと共に何不自由のない生活を送っている。しかし、それというのは心の拠り所を変えただけで、本質は何も変わっていないのではないか。
『お前はもう、道具じゃない』
あのとき、私はお礼の言葉すら返せなかった。大賢者の言葉は、温かい肯定であると同時に、私という、どうしようもない人間の空虚さを映す鏡でもあった。
「そんな感じ、ですかね。ちょっと、ごめんなさい。こんなんじゃ、アシハラさんのことを言えませんよね」
逃げるように茶化し笑いをして、話を切り上げた。そんな私を見て、ソフィーさんは目尻を下げ、穏やかに笑うだけだった。
路地裏にひっそりと構える店を背にして、ぽつぽつと途切れることのない人通りを、テラス席からただ眺める。半端に話を終えてしまった私の胸の奥には、小さなトゲのような後悔が兆していた。
昼が近づいてくると、往来の人影は徐々に増え始めた。ポコン、とソフィーさんが指の付け根に雁首を打ちつけ、溜まった灰を振り落とす。一服を終え、灰皿にそっと煙管を置いた彼女はこちらに視線を移すと、おもむろに口を開いた。
「『木の芽時』、ってことかしらね?」
「……コノメ?」
聞き馴染みのない響きを、オウム返しになぞった。
「そう、木の芽時。春先になるとね、植物たちが硬い殻を破って新しく芽を出すでしょ? その子たちが土の中で、一生懸命に自分の形を変えようとしている季節でもあるんだけど、それって、ものすごくエネルギーを使うの。だから、その時期は、たとえどんな子であっても、調子を崩しやすかったり、迷ってしまったり、心がざわついたりしてしまうものなの」
飄々としていて、とぼけたところもあって、自分のペースで生きている。そんなソフィーさんから、まさかこんなにも奥行のある、素敵な言葉をかけてもらえるとは思ってもいなかった。
つまりは、私の空虚さも、息苦しさも、すべては「新しく生きようとするためのエネルギー」なのだと、彼女は言ってくれていた。
私はあんぐりと口を開けて、彼女の瞳を見ることしかできなかった。
彼女は透明で、どこまでも深く、揺るぎのない母性を感じさせる笑みを湛えていた。それは遠くから見守る空のようでも、すべてを包む海のようでも、命を育む大地のようでもあった。
ズクズクと毒づいていた鼓動が落ち着いていく。空虚な思いは、たおやかな太陽の光に照らされたような気分へと変わり、途端に私のお腹がキュルキュルと遠慮がちに鳴った。気恥ずかしさで、反射的に俯き、音の出た部分に手を当てた。
「コーヒーのお代わりとケーキ、頼んじゃう?」
顔を上げると、いつもの少女のような笑顔を浮かべるソフィーさんがいた。
「そうですね。ダメもとで、カレーも頼んでみましょう」
せっかくのスパイスの国だ。少し冒険して、私は大切な仲間と、楽しい時間を分かち合うことにした。




