149 太陽の都オルセメス
悠久の渇きを吸い込んで硬化した、日干しレンガの窓辺。ざらついた泥の壁に手をかけ、眼下を覗き込めば、炎暑を拒絶する広大なオアシスが鏡のような水面を湛えていた。
「まぶしいな」
「ピィ」
「あと、ずっとカレー臭い」
「ピピィ」
隣の窓際に立つキラとピィちゃんが情緒を台無しにする。香辛料の香り漂う『太陽の都オルセメス』は、イルハレバナよりも広く、エシュ・ヤハムよりも立体的で、まさに都と呼ぶにふさわしい規模を誇っていた。
都市を形成するのは、ビルのように高く積まれたレンガの建造物群だった。どの屋上も、名産品であるスパイスの乾燥に使われており、たとえ宿の中にいようとも、この刺激的な香りからは逃れられない。
そびえ立つ建物たちは常に日陰を作り続け、都市の内側に入れば入るほど空気は冷え、路地は複雑さを増してゆく。さらには地下街までが存在し、そこには古書や壁画などを保存する施設もあるらしい。こんな大都市で、人や物を探す羽目になっていたら、時間がいくらあっても足りなかっただろう。
幸いにも、キラの『加護』は入手済みで、この都市ですべきことは特にない。おかげで、私も純粋に観光客気分でいることができた。
「終わったぞ! ついてこい!」
チェックインを終えた大賢者が、ロビーから声を張り上げる。そこにはソフィーさんやサラマンダー君はもちろん、アシハラの姿もあった。
「涼しい部屋だといいなぁ?」
「ピィ!」
長い髪をさらりとなびかせ、弾むように走るキラの背中を、ピィちゃんがてちてちと追いかける。残された私は、一人コツコツと砂岩の床に靴音を響かせた。
その部屋は磨き上げられた柱が支え、落ち着いた色合いの絨毯が敷かれていた。柱や壁に彫刻や装飾などは一切施されておらず、シンプルがゆえに贅の赴きを感じさせる、そんな空間だった。
アーチをくぐり抜けた先にあるのは、ダイニングルームだ。一段低くなったところにローソファが並べられ、もう一段掘り下げられた中心には、金網で囲われた暖炉が設置されている。
「涼しい! 最高!」
入ってすぐ、キラは喜びの声を上げながらソファに倒れ込んだ。未明に到着したときの冷え込みは、彼女の頭からすっかり消え去っているようだった。
「なんだろう、これ? 井戸かなぁ?」
「ピピィ?」
アシハラとピィちゃんは、部屋の隅に置かれているポンプの付いた素焼きの水瓶を見て、首を傾げていた。そこに近づいて行ったのは大賢者だった。
「楽しそうだな。貸してみ?」
ガチャガチャと乱暴にレバーを動かす大賢者と、「水が出た!」とはしゃぐキラたちを見て、緩みかけた口元を引き締める。私はそっと皆の輪を抜け出し、奥に見えるバルコニーへと足を運んだ。
鉄製の冷たいフェンスに手をかけて、オルセメス本来の姿を一望する。
日陰に塗りつぶされた建物の壁。小窓から覗くランプの光が、これから訪れる夜を静かに迎え入れているようだった。上を仰げば、労働を終えた人たちが橋代わりの板すら使わず、ぴょんぴょんと建物に飛び移り家路を急ぐ姿が目に映る。下に入り組む影の路地は人影もまばらに、時折ひんやりとした風を運んでくる。
ふと、バニラのような甘い香りが鼻をついた。振り返ると、煙をくゆらせたソフィーさんが私を見下ろしていた。
彼女は何も言わず、私の隣に立つと、手にしていた煙管の吸い口をこちらへと向けてきた。少しだけ躊躇したが、私はその誘いを受けることにした。
どっかりと重たいものが肺の中に落ち込む。たまらず吐き出した煙が鼻腔を突き抜け、弧を描く夕月を掠める。口の中に残ったのは苦みと甘み。むせ返りそうになるのを堪えながら、私は何度も頷いて、彼女の心遣いに感謝した。
「どう?」
「……煙草は、合わないみたいです」
私が答えると彼女は悪戯に笑って、煙管の先を口に含んだ。彼女の吐く紫煙は、巻くように街の空気に融けていった。
「お前ら、メシはどうするんだ? カレーとか、カレーとか、あとカレーとか、選べるみたいだぞ?」
背後から大賢者の声が飛んでくる。
「私はカレーでお願いします」
「私も」
見ることもなく、二人揃って辛口で返してやる。すると、彼は「へっ」と短く笑い、その気配を遠ざけていった。
「過保護な男も、どうかと思うけどね」
その恩恵を一番に受けている張本人が、自分のことを棚に上げる。しかし私は、彼女が作り出した棚に全体重を預け、笑みを返した。
ソフィーさんは魅惑的に表情を和らげると、細い指先で煙管を弄りながら言葉を紡いだ。
「明日はどうするの?」
「観光の続き、ですかね」
今朝早くに到着してから半日かけて、皆で街を巡った。滞在期間は残り三日間。広大なオルセメスを余すところなく見て回るには、あまりにも時間が足りない。そうなると、私の心には一つの場所だけが気にかかった。
「図書館? 一人で?」
その問いかけには、まともに答えられなかった。行きたい場所については指摘通りだったが、見知らぬ土地での単独行動は避けるべきだという、当然の警戒心がそうさせた。
路地の切れ間に目をやりながら、誰を誘うべきか、真剣に考える。候補として筆頭に挙がるのは、やはりアシハラと大賢者だ。
未知の知識の解説役としては、アシハラでは言葉が足りず、一からものを教えてくれる大賢者が最適。だが、厄介ごとに遭遇した場合、その評価は真逆になる。物事をスマートに解決するか、問題そのものを遠ざける傾向にあるアシハラは最高で、そういったことに首を突っ込みたがる大賢者は最低最悪。
いずれを選ぶにせよ、一長一短。この状況に、私は「うーん」と唸ることしかできなかった。
「ずいぶんと悩むのね。それなら、私がついて行ってもいいかしら?」
「えっ、と……」
珍しいを通り越して、彼女の方から外出を誘ってくるのは、初めてのことだった。
動揺を隠しきれずにいる私をよそに、ソフィーさんは面白がるような、見通したような、深いまなざしでこちらを見つめる。
冒険心だろうか。彼女の顔を眺めているうちに、自分の中の燻っていた何かが燃え上がった気がした。
「……とても心強いです。お願いできますか?」
「決まりね」
満足そうに口角を上げた彼女は、細く長く吐き出した煙を黄昏の終わりに纏わせた。
夕闇が完全に街を飲み込むと、無数の窓から温かな色を灯す光が零れ始めた。背後で響く声は徐々に騒がしくなり、夜風に漂うスパイシーな香りに、ふわりと舞うバニラの匂いが絶妙に調和した。




