148 うつ熱からの救済
馬車に入ってすぐ、目の前にあるのは狭いテーブル席だ。座る前に水を張ってもらった桶を置く。窓の外に流れるのは、砂埃を巻き上げる熱風。その風景を背に、通路側へと両脚を出して腰掛ける。垂れ落ちる汗を拭うようにフードを脱ぎ、フェイスベールを卓上へと放り出す。
動悸に合わせて視界が揺れ動く。外よりマシとは言え、決して涼しいわけではない。それでも、ここが天国に感じられるのは、ブーツを脱いでくつろげるという一点に尽きる。
荒くなった呼気と、ゴトゴトと煮え立つように騒ぐ脈拍が耳障りだった。
チャプンと音を立てて、水桶に両足を浸けた。しばらくすれば、この冷たさが正常を取り戻してくれるはずだ。
足の熱だけが、すーっと引いていく。同時にふくらはぎから腿にかけて、思い出したようにじんわりとした怠さが広がった。熱を孕む息は次第に落ち着き、あとはゆっくりと時間をかけて、心地よい静けさが訪れるはずだった。
「暑いなら『暑い』と、口に出した方が早く楽になれるぞ?」
奥の寝室から大賢者が姿を現した。彼は私の前を素通りして、流し台にまで歩いて行った。片方の手で吊り戸棚の布を引き抜きながら、もう一方の手で蛇口を捻る。しかし、目いっぱい捻っても、一滴も水が出てこない。案の定、彼は不機嫌そうに眉根を寄せて、大きく舌打ちをした。
「……まったく。使ったら補充しろって、何回言えばわかるんだ、アイツは」
怒り心頭の表情を浮かべた彼は、こちらに戻ってきて出入り口の前に立った。そして、荒ぶる感情のままに扉を開いて、大声を喚き散らした。
「キラ!! タンク空っぽにしたら、ゼノに頼めって言ってるだろう!! ゼノ、水を入れてくれ!!」
外から「ピィ」という声のあとに、ジャバジャバと水を注ぐ音が聞こえてきた。音が落ち着くと、大賢者は乱暴に音を立てながら扉を閉め、再び流し台に立って布に水を含ませた。
「ほら、これを使え」
ほとんど絞らないうちに、濡れて重くなった布巾を投げてよこしてくる。受け取った拍子に、周囲に水が飛び散ったが、私はそれに構わず、じんじんと痛む顔に布をあてた。
「バカ、そこじゃねぇよ」
ストレートに蔑まれる。大賢者は渡してきたばかりの布をひょいと取り上げると、それを広げて、私の首にぐるりと巻き付けてきた。肩に乗っていた使い魔のイブは、巻き添えを食うまいとテーブルに着地を決め、トコトコと窓際へと駆けて行った。
「あとは左右の腋の下と股の間、というか内腿の付け根。触って熱いところだ」
大賢者は流れるように私のローブをつまみ、いつの間にか用意していた濡れ布巾を四つも放り入れてきた。
「ちょ、ちょっと!?」
熱の抜けきらない頭を振って、私はビチャビチャになってしまった服の中に手を潜り込ませた。
「恥ずかしがらずに!! しっかりと濡れタオルを当ててくださぁい!! 命にかかわりますからぁ!!」
大きな声で誤魔化しやがって。
渋々、彼の言う通りにしてみる。すると、体の芯に残っていた熱と気だるさが嘘のように、しかも素早く消えていった。
驚きに目を見張りながら、彼を見上げる。そこには、いつもの得意げな表情があった。
「……なんで、知っているんですか? こういう、技術を」
「親の教育の賜物だな」
かつて、大賢者の実家にあったとされる懲罰房の話を思い出す。軽々と言って見せた彼にも、苦難に満ちた過去があるわけだが、そもそも少年時代が悪ガキ過ぎたという大前提を忘れてはいけない。
「家畜の場合は、直腸に氷水をぶち込んだりもするんだが、これが効果てきめんでな。嘘みたいだろ? やってみるか?」
主に母親の教育の賜物に違いない、品のない冗談を言いながら向かいの席に座ってくる。そんな彼に、私は冷ややかな視線を返した。
「そういう顔するなって。それにしても、ひでぇ顔だな。また資材でも見っけて、昼の砂漠に飛び出したのか」
「まあ、そんなところです」
「どうして無理に行ったりした? 夜まで待って、俺たちに取りに行かせれば、それでよかっただろう?」
「……あなたたちには、あなたたちの仕事があります。私が行けば、不要な手間が省けます。何も間違っていないと思いますけど」
うっすらと笑いを浮かべていた彼の瞳がギラリと光った。
「まだそんなこと、気にしてんのか。役に立たなければ居てはならないと、誰が決めた? キラを見ろ。初日で三日分の果物、全部食っちゃったぞ? だからって、放り出したりするのか?」
「子供と一緒にしないでください」
「じゃあ、ソフィーでもいい。食って寝て、タバコふかして。ガキどもを甘やかして。たまに、とんでもねぇ毒吐いて。それが何の役に立ってる? 立ってねぇだろ?」
私はただ黙って、足を動かし、桶の中で広がっていく水の波紋をじっと見続けた。ふっと短く、大賢者が心地のいい鼻笑いを漏らすのが聞こえた。
「沁みついたもんてのは、なかなかなぁ……まあ、難しいわな。ただ、何度だって言うぞ?」
背後の窓が、ガタガタと鳴った。視界の端に映る彼は、その喧騒が収まるのを待っているようだった。静けさが戻ってくると、彼はまっすぐにこちらを見据えて告げた。
「お前はもう、道具じゃない」
首に回していた布巾をさっと目元にあて、私は天を仰いだ。眉間に溜まっている熱さが、時間をかけて、頭の天辺に抜けていった。
ガタリと、乱暴な物音がした。わざとらしく響く靴音が、遠のいていく。やがて訪れた静寂は、一握りの侘しさを運んできた。




