141 静寂の大講義
エシュ・ヤハムは、喧騒とは無縁の街だった。
とは言え、無音というわけではない。温泉が流れる音はもちろん、チリリと鳴く虫の声もあれば、建物の軒先にぶら下げられた、陶器でできた風鈴のひんやりとした音色も時折響く。しかし、いくら通りを歩いても、滅多に人と出くわすことがなかった。それこそが、この静寂の正体だった。
「どうしてこんなに、人が出歩いていないんでしょう?」
そぞろ歩きを続ける大賢者の背中に問いかける。彼は足を止めることもなければ、振り返ることもなく答えた。
「魔女なら知ってるだろう? 夜っていうのは、内側に溜まりやすいからだ」
彼が魔力の話をしているというのは、すぐにピンときた。が、それがなぜこの人気のなさにつながっているのかまでは、理解が追い付かなかった。もう少し詳しい解説が欲しくなった私は、隣にいたアシハラの顔を仰いだ。
「えーっと……人間に、氷魔法の達人があんまりいないのと一緒」
確かにその通りなのだが、余計にわからなくなった。熱を変化させる魔力の働きと、この事態に関連性があるということなのだろうか。
頭を悩ませていると、キラが横から乱入してきた。彼女はカツンと杖を叩くと、全身の力を抜いてアシハラの大きなお腹に寄り掛かった。
「疲れた。ちょっと、坂が多くないか?」
ここでようやく、大賢者が振り向いてくれた。宿を出発してから、かれこれ数十分は続いていた行軍の足が、とうとう止まった。
眉間に皺こそ寄せていたものの、大賢者は黙ってその場で一服を始めた。嗅ぎ慣れた煙草の匂いに、甘く華やかな香りが混じる。見ると、ソフィーさんがキラの頬に手を当てていた。
「大丈夫?」
「いやぁ、ダメだ。ムガ、なんかやってくれ」
「なんか、って何?」
「元気が出る、いつものやつ。キンタマ見せるとか」
「やったことないでしょ、そんなこと」
「フフフ」
いつものミニコントが、ソフィーさんから笑いを引き出したところで、私はその場からそっと離れた。
空中にせり出す建物の縁には、小さな背中と大きな犬のシルエットがあった。私の気配を察知したサラマンダー君は尻尾を振り、座って足をぶらつかせていたピィちゃんは、少し遅れてこちらを振り返った。
「二人は大丈夫? 疲れたり、喉乾いたりしてない?」
「ピピピ」
「キューン」
ピィちゃんは素早く首を横に振り、サラマンダー君は私の手の甲を舐めてくるだけだった。
笑みと共に、胸に溜まっていた熱い空気を吐き出す。そのまま、ピィちゃんと肩を並べて座ると、目の前には淡く幻想的な光に抱かれる夜の街があった。
起伏に富んだエシュ・ヤハムの街並みは、キラが『坂が多い』とこぼすのも頷けるほど、高低差が激しい。
石筍をくり抜いた建物は複雑に入り組み、家の外側を削った階段や、建造物同士を繋ぐアーチを描いた空中回廊がとにかく多い。実のところ、時間をかけた割に、宿からはそう離れていなかった。
彼は、一体どこまで行くつもりなのか。
おのずと、視線は大賢者に向いた。紫煙のおかげか、彼の眉間の皺はなくなっていた。
「……ちょっと、行ってくるね?」
「ピ!」
「キューン」
冷たい肌と温かい毛並み。まるでこの街に流れる、湯けむりを孕んだ風のような調和を手の中に残して、私は大賢者のもとに向かった。
「な、なにがしたいの?」
「肩車!」
「肩車は、肩に乗るんだよ? 杖が引っかかっちゃうから、危ないって!」
「フフフ」
わちゃわちゃとした三人組の脇を通り抜け、上半身裸の姿を貫く男に近づく。無駄な脂肪がそぎ落とされたその背中は、何度見ても惚れ惚れとする美しさがあった。
「ソワソワと忙しなく動き回って、今日は何が気になっちゃったんだ? タルちゃんは」
突き放しているのか、歓迎しているのか。まだ隣にも立っていないのに、彼は二本目の煙草に火を点けながら、私の挙動をからかってきた。
「魔法が使えなくても、なんでもお見通しのようで」
精いっぱいの皮肉を返し、私は彼の並びに体を滑り込ませた。
横で吐き出された煙が、風に攫われ、消えていく。彼はただ静かに、眼下に広がる街並みを見下ろしていた。
「それで? 俺とアシハラ、どっちの話が引っかかったんだ?」
「両方、伺いたいです」
彼はふっと煙を吐き出すと、指を軽く動かして灰を落とした。
「なんてことはねぇ。どちらも、人間の本能の話だ」
「本能?」
「本来なら、アシハラのように魔力に絡めて説明したいところだが……どうする?」
言わんとするところが推し量れない私には、曖昧に首を傾けることしかできなかった。
「……じゃあ、魔力に絡めた方で話してやる。まずは『氷魔法』から」
大賢者は街の灯りに背を向けて、言葉を続けた。
「氷魔法ってのは、負の魔法だ。どれだけ理屈をこねても、俺たちってのは『女神』の子であることに変わりはない。『はじまりの木』と同じ、正のエネルギーを生み出して、循環させることで生きてる。負の魔法っていうのは、どうしても生存欲求に反しちまうんだよ。氷魔法の達人といえば、大陸を丸ごと凍らせたフレデリスなんかが有名だが、何千年も前の話で、どこまで本当かもわかりゃしねぇ。全部本当だと仮定しても、その魔法使って死んでるだろ?」
頷く代わりに、ゾワリと鳥肌が立った。魔力暴走とは違い、自らの意思で命を削る行為。想像しただけで、震えてきた。
「魔法学的に説明すれば、夜も同じだ。自分の中にある魔力を内側に溜める、そういう時間。短期間ならなんてことはねぇんだが、長く晒されると個人差関係なく、絶対に負に落ちる『魔』の時間だ」
「『魔』の時間って……」
矛盾を感じた私は聞き返した。私の知っている限り、その言葉には魔女が正の魔力を与えられるといった意味があったはずだからだ。
「それは大きな間違いってやつだ」
私の混乱を見透かしたように、大賢者は笑みを浮かべた。
「よく勘違いしているというか、完全に間違った印象を世論が受けているようだから、それについても、この際説明しておくか。例外はあるにせよ、男と女では、負の魔力の許容量が大きく違う。魔女の方が我慢強いという傾向にある。だから、夜は魔女の時間と言われてきたわけだ。男よりも負の魔力に耐性のある魔女に理がある時間、それが夜だ」
耐えるための時間であって、恵みを与えられていたわけじゃない。常識を書き換えられたような感覚に陥った私は、黙って話の続きを聞くしかなかった。
「だが、どれだけデカい器を持っていたとしても、最終的には溢れちまう。その結果、どうなるかというと……アイツを覚えてるか? アフリカで会った、隻眼の」
「ジルマールさんですか?」
忘れられるわけがない。ジルマールはとんでもない魔力と知識を兼ね備えた、放浪の一族の魔女だ。彼女とはタンザニアの森の中で出会い、紆余曲折の末、今は大賢者の実家であるアレキサンダー領でひっそりと暮らしている。
「よく覚えてるな」
これだけの知識を持っているからこそ、彼の脳には個人の名前を詰め込むだけのスペースがない。そう解釈していた私は、どんな人間にも許容量があるのだと改めて痛感し、なぜか少しだけ、寂しい気持ちが湧き上がった。
「……まあ、男女関係なく、限界を迎えるとアイツみたいに引きこもるようになっちまうんだよ。自分を守るためにな。要するに、この街の誰しもが、永遠の夜にやられちゃってるってことだ。旅人だろうが、住人だろうが、そういうやつらは、宿なり、家なり、こもるしかなくなる。外を出歩く人間が少なくなるのも、必然ってもんだろ?」
「……ありがとうございました」
「はい、お疲れさん。じゃあ、休憩終わり」
この静寂は、人間という生き物の自己防衛によってもたらされていた。長い講義を受けて満足感に浸った私は、ついでに、もう一つだけ残った疑問を口にした。
「ところで、どこに向かって歩いているんですか?」
「あっちにある、フルーツパーラーだ」
彼は顔をしれっとさせて、進行方向とは正反対にある、これまでに歩いてきた道を顎で指した。
「通り過ぎたじゃないですか! どうして、そんなことを!?」
「フハハハハ! 言っただろう? 必要なのはメシ、風呂、そして運動だ! お前らが夜に負けないよう、街をグルグル回ってやったんだよ!」
「別にそれは構わないですけど、目的地くらい先に教えておいてくださいよ! キラが先に参っちゃったじゃないですか!」
「長い人生、ゴールが見えていることばかりが起きるとも限らんだろう? それに備えての、精神訓練だよ」
「まったくもう……」
減らず口に、呆れてものが言えなくなった。しかし、この苦行の先に待っている甘味を想像してしまった私は、どうしても、彼を責め続ける気にはなれなかった。




