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大賢者の秘書官イシュタル ~何者でもない魔女の一生……になるはずだった~  作者: ふるみ あまた
5章 ゲームの章

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137 見えぬものこそ

 

 少しずつ、空気が熱くなっていった。


 私のすぐ横で、チャカチャカと爪を響かせているのはサラマンダー君だ。



 走る。ひたすら走る。



 洞穴が取り戻した息吹を背中で感じながら、ただ前だけを見つめる。


 遠くにあった闇の裂け目が、ぐんぐん近づいてくる。


 蛍を集めたような光の塊が、すぐそこまで迫っていた。


 熱気を孕んだ蒸気が私を捕まえようと手を伸ばしてきた。


 その手を振り払い、もつれそうになった足を大きく踏ん張って、闇の裂け目に飛び込む。





 冷たい夜風が身体を貫いた。視界を埋め尽くしたのは、無数の植物と虫たちの光に揺れるエシュ・ヤハムの全景。追いかけてきた蒸気は、もう届かない。私はただ、その美しい夜の底で激しく息を乱していた。


「実にいい走りだった。お疲れさん。サラマンダー君も」


 殴ってやろうか。


 命がけの脱出劇を一番に駆け抜けた大賢者の顔は、そう思うほど涼しいものだった。


「はぁ……はぁ……っ」


 突然、温かいものが私の口に触れた。


「キューン」


 サラマンダー君の舌だった。健気な忠犬の顔を両手で包み込み、その気持ちだけをありがたく受け取らせてもらう。


 振り返って確認すると、大口を開けた暗闇の穴から、薄い湯煙がのんびりと立ち上っていた。


「ふぅ……」


 大きく息を吐き、軽い屈伸運動を行う。それから、近くにあった岩に腰かける。傍には、出発時に大賢者が置きっぱなしにしたレインコートがあった。


「こいつは用済みだな」


 レインコートを脇へと寄せた大賢者が、どかりと隣に座り込んできた。私は座ったまま、下半身の筋肉を伸ばす動きに終始した。


「もうちっとあるだろう? モヤモヤの晴れた夜景に感動するとか」

「いや……私のこと、いくつだと思ってるんですか?」

「さて、十代だったかな?」


 ナメたことを言ってくる彼の肩口を叩く。だが、何が作用しているのか、叩いたこちらの体が揺れてしまう。


「へへっ。でも、年の割に、素直に感動してることが多いぞ? 『わぁ……』とか言って」


 殺してやる。


 本気でそう思い、拳に力を込める。直後、するりと間に入ってきたのはサラマンダー君だった。


 突然の乱入に驚くこともなく、大賢者は彼の頭をガシガシと撫でた。それを見て、私は握った拳をしまい込んだ。しかし、何か言い返してやりたい気持ちまでは収まらなかった。


「……悪意のあるモノマネは、控えた方がよろしいのでは?」

「何言ってんだ。善意しかない、この俺に向かって」


 平然と放たれた矛盾にカチンとくる。こうなってしまうと、私は口を止められなくなる。


「大体、なぜ私をここに連れてきたんですか?」

「それも同じ、善意かな」


 何が善意だ。私の選んだ宿の料金が思いのほか高かったから、それを飲むことを条件に、圧力をかけてきたくせに。


 募った怒りを吹き飛ばすような風が、崖下から吹き抜けてきた。それを合図に、蛍の群れが一斉に飛び立つ。夜闇に無数の光の粒が融け出し、その光景に思わず息をのんだ。


「わ……」


 開きかけた口を閉じる。勝ち誇った笑みを浮かべているであろう大賢者の方は見ず、私は立ち上がって、そのまま街を一望できる崖際へと足を運んだ。そこには、洞穴に入る前からは想像もつかない景色が広がっていた。



 幾千、幾万もの年月が紡ぎだした、石筍の街エシュ・ヤハム。大地から生え変わるようにして天を突く無数の尖塔は、生きている結晶のように冷ややかに、そして厳かに夜の極みを支配している。


 蛍の群れが、その無機質な石の建物の間を縫うように、ゆっくりと昇っていく。ゴツゴツとした石肌を宝石の煌めきへと変えているのは、淡い緑色をした光の粒だけではなく、様々な光を放つ植物やキノコたちだった。


 それらは命を宿したかのように、複雑に入り組む街の陰影を、この渓谷の底に描き出していた。街のあちこちから漏れる人工の灯りと、植物や虫たちが放つ自然の光が、石筍の輪郭を優しく、朧げに溶かしていく。



「……な?」


 いつの間にか、大賢者が隣に立っていた。ほとんど同時に、綿菓子のように柔らかいものが膝に触れてきた。足元を見ると、サラマンダー君が体をこすりつけてきていた。


 私は何も返さず、白煙の分厚いカーテンを取り除かれた、エシュ・ヤハム本来の姿を眺め続けた。しばらくの間そうしていると、ある一つの考えが浮かび上がってきた。


「……見えぬものこそ、ですね?」


 それは、しばしば彼が用いるフレーズでもあった。


 すぐそこで暮らしている人々は、ほとんどこの素晴らしい景色を知らないのではないだろうか。それこそが、この男の矛盾とも思える言動の正体ではないか。


「知らね。帰るぞ?」


 ぶっきらぼうに吐き捨てると、大賢者は背中を向け、一人でさっさと歩き出していった。


「馬車の行程は、最長で三日にしてもらいますね?」


 後ろから報告すると、彼は気だるげに腕を上げて応えた。


 気づかれたいのか、隠したいのか。心底めんどくさい人だ。


 高鳴る気持ちを抑えきれず、サラマンダー君にウインクを決める。それから私は、少し早足で、彼の背中を追いかけた。

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