137 見えぬものこそ
少しずつ、空気が熱くなっていった。
私のすぐ横で、チャカチャカと爪を響かせているのはサラマンダー君だ。
走る。ひたすら走る。
洞穴が取り戻した息吹を背中で感じながら、ただ前だけを見つめる。
遠くにあった闇の裂け目が、ぐんぐん近づいてくる。
蛍を集めたような光の塊が、すぐそこまで迫っていた。
熱気を孕んだ蒸気が私を捕まえようと手を伸ばしてきた。
その手を振り払い、もつれそうになった足を大きく踏ん張って、闇の裂け目に飛び込む。
冷たい夜風が身体を貫いた。視界を埋め尽くしたのは、無数の植物と虫たちの光に揺れるエシュ・ヤハムの全景。追いかけてきた蒸気は、もう届かない。私はただ、その美しい夜の底で激しく息を乱していた。
「実にいい走りだった。お疲れさん。サラマンダー君も」
殴ってやろうか。
命がけの脱出劇を一番に駆け抜けた大賢者の顔は、そう思うほど涼しいものだった。
「はぁ……はぁ……っ」
突然、温かいものが私の口に触れた。
「キューン」
サラマンダー君の舌だった。健気な忠犬の顔を両手で包み込み、その気持ちだけをありがたく受け取らせてもらう。
振り返って確認すると、大口を開けた暗闇の穴から、薄い湯煙がのんびりと立ち上っていた。
「ふぅ……」
大きく息を吐き、軽い屈伸運動を行う。それから、近くにあった岩に腰かける。傍には、出発時に大賢者が置きっぱなしにしたレインコートがあった。
「こいつは用済みだな」
レインコートを脇へと寄せた大賢者が、どかりと隣に座り込んできた。私は座ったまま、下半身の筋肉を伸ばす動きに終始した。
「もうちっとあるだろう? モヤモヤの晴れた夜景に感動するとか」
「いや……私のこと、いくつだと思ってるんですか?」
「さて、十代だったかな?」
ナメたことを言ってくる彼の肩口を叩く。だが、何が作用しているのか、叩いたこちらの体が揺れてしまう。
「へへっ。でも、年の割に、素直に感動してることが多いぞ? 『わぁ……』とか言って」
殺してやる。
本気でそう思い、拳に力を込める。直後、するりと間に入ってきたのはサラマンダー君だった。
突然の乱入に驚くこともなく、大賢者は彼の頭をガシガシと撫でた。それを見て、私は握った拳をしまい込んだ。しかし、何か言い返してやりたい気持ちまでは収まらなかった。
「……悪意のあるモノマネは、控えた方がよろしいのでは?」
「何言ってんだ。善意しかない、この俺に向かって」
平然と放たれた矛盾にカチンとくる。こうなってしまうと、私は口を止められなくなる。
「大体、なぜ私をここに連れてきたんですか?」
「それも同じ、善意かな」
何が善意だ。私の選んだ宿の料金が思いのほか高かったから、それを飲むことを条件に、圧力をかけてきたくせに。
募った怒りを吹き飛ばすような風が、崖下から吹き抜けてきた。それを合図に、蛍の群れが一斉に飛び立つ。夜闇に無数の光の粒が融け出し、その光景に思わず息をのんだ。
「わ……」
開きかけた口を閉じる。勝ち誇った笑みを浮かべているであろう大賢者の方は見ず、私は立ち上がって、そのまま街を一望できる崖際へと足を運んだ。そこには、洞穴に入る前からは想像もつかない景色が広がっていた。
幾千、幾万もの年月が紡ぎだした、石筍の街エシュ・ヤハム。大地から生え変わるようにして天を突く無数の尖塔は、生きている結晶のように冷ややかに、そして厳かに夜の極みを支配している。
蛍の群れが、その無機質な石の建物の間を縫うように、ゆっくりと昇っていく。ゴツゴツとした石肌を宝石の煌めきへと変えているのは、淡い緑色をした光の粒だけではなく、様々な光を放つ植物やキノコたちだった。
それらは命を宿したかのように、複雑に入り組む街の陰影を、この渓谷の底に描き出していた。街のあちこちから漏れる人工の灯りと、植物や虫たちが放つ自然の光が、石筍の輪郭を優しく、朧げに溶かしていく。
「……な?」
いつの間にか、大賢者が隣に立っていた。ほとんど同時に、綿菓子のように柔らかいものが膝に触れてきた。足元を見ると、サラマンダー君が体をこすりつけてきていた。
私は何も返さず、白煙の分厚いカーテンを取り除かれた、エシュ・ヤハム本来の姿を眺め続けた。しばらくの間そうしていると、ある一つの考えが浮かび上がってきた。
「……見えぬものこそ、ですね?」
それは、しばしば彼が用いるフレーズでもあった。
すぐそこで暮らしている人々は、ほとんどこの素晴らしい景色を知らないのではないだろうか。それこそが、この男の矛盾とも思える言動の正体ではないか。
「知らね。帰るぞ?」
ぶっきらぼうに吐き捨てると、大賢者は背中を向け、一人でさっさと歩き出していった。
「馬車の行程は、最長で三日にしてもらいますね?」
後ろから報告すると、彼は気だるげに腕を上げて応えた。
気づかれたいのか、隠したいのか。心底めんどくさい人だ。
高鳴る気持ちを抑えきれず、サラマンダー君にウインクを決める。それから私は、少し早足で、彼の背中を追いかけた。




