136 光と影
からりと乾いた洞穴の中を、白く輝く犬神が行く。取り巻く空気を陽炎へと歪めるほどの熱量を、全身から発している。それなのに、あとに続く私には、一切の暑さを感じさせない。日輪を背負う神々しい背中は、その白い毛並みの先だけが、燃えるような黄丹色に染まっていた。
「あんな姿にも、なれたんですね」
私の呟きに、隣を歩く大賢者がぴたりと足を止める。それを察したのか、前を行くサラマンダー君が大きな頭を振り返らせた。
「火の精霊だからな。実体なんていうのは、無いに等しい」
風も、水の流れる音さえも失った静寂の中に、彼の声だけが響いた。
「実体が、無い?」
私は彼の言葉をなぞるように呟いた。
目の前で輝くサラマンダー君は、犬神の姿をしているが、その正体は純粋な熱そのものということだろうか。いずれにせよ、一度湧いた好奇心を抑えることは、私にはできなかった。
「この白い毛並みや、光は、一体何なんです? 幻惑にかけられて、そう見えている、ということですか?」
「ああ、近いな。というか、それでいいと思う。実のところ、そのあたりの話っていうのは、古代精霊信仰とか、そういう話になってくるから、あんまり面白くねぇんだよなぁ……」
天井に視線を向け、考えるような表情を浮かべた大賢者は、サラマンダー君のもとへ歩み寄っていった。そのまま、彼は恐れもせず、自分の胴体など簡単に食いちぎられそうなほどに巨大化したサラマンダー君の頭に手を置いた。
「まぁ……現実世界でこんな姿をさらけ出されたら、それは世界が終わるときだ。制御、管理。人間というやつは、できやしないことに、どうして盲目的になっちまうんだろうなぁ……」
何も返せなかった。
彼の隣に立つ者として、ふさわしい前提知識がまだまだ足りない。また一つ、取り寄せる文献が増えてしまった。
頭を撫でられたサラマンダー君は、満足そうに喉を鳴らすと、再び前方を照らすように進み始めた。苦笑を浮かべた大賢者は、少しだけ首を傾げ、私についてくるよう促してきた。
そう深くはない、いくつかの分岐を進んだ先に、最奥部と思われる空洞が広がっていた。そこは、石で縁取られた平皿が段々畑のように重なった、奇妙な地形をしていた。
「畦石ってやつだな」
大賢者が、美しい波紋を描く段差の縁で足を止める。すると彼は、靴の先で石の硬さを確かめるように軽く小突いた。
「こりゃあ角度が悪いと、簡単に足首を持っていかれるな。気をつけろよ?」
「はい」
彼の忠告に耳を傾けつつ、私は石の段差を跨いだ。瞬間、靴の裏にぬるりとした泥の感触が伝わる。
「……源泉は、ここにあったんでしょうか?」
確信が欲しくなり、すぐさま尋ねる。欲しい答えはすぐに返ってきたが、予想していなかった情報までついてきた。
「おそらく。サラマンダー君が張り切りすぎちゃって、今は干上がってるけど」
「クーン……」
皮肉にさらされ、落ち込んだサラマンダー君が耳を伏せた。思い出したかのように愛らしさを覚えた私は、燃えるようなその頬に慰めの手を添えた。
直後、快楽にも似た、溺れるような心地よさが体の内側から全身の毛穴にまで広がった。得も言われぬ極上の感覚にすべてを奪われ、目の前も、頭の中さえも真っ白に染められていく。
「感じちゃったか?」
大賢者の顔が、すぐ近くにあった。彼は手首を掴んで、私の体を支えていた。
「……軽く」
世界の深淵か、生死の境を覗いたような、禁忌と甘美を備えた未知の体験。呼吸を取り戻した私は彼から目を逸らし、そう返すのが精一杯だった。
「今はやめとけ」
今一度、と思いサラマンダー君に伸ばしかけていた手を引っ込める。大賢者は、すでにこちらに背を向けていた。
「なかなか出てこねぇな……おーい!!」
突如として、彼は見えない何かに向かって威嚇するような、私の肌を痺れさせるほどの大声をあげた。
「グルルル……」
サラマンダー君が奥にある窪みに向かって、唸り声をあげた。見ると、音もなく湧き上がってきた真っ暗な水が、うねりながら窪みを満たしていった。
「ふん、影の獣か……王道だな」
大賢者が零した単語をきっかけに、理解が追いつく。それは水ではなく、影だった。蠢く漆黒の塊は、窪みから溢れ出し、じわじわとその形を変えていく。
先端をこちらに向かせた、捻じれた二本の角。緑色の瞳に走る、縦長の瞳孔。口を閉じた状態でも、外に突き出された鋭い牙。
現れたのは、犬神の大きさにも引けを取らない、巨躯の虎だった。
こちらを見定めた巨虎は大口を開け、激しい稲妻のような咆哮を上げた。身が竦むような轟音に、私は一瞬だけ、反射的に目をつむってしまった。
「うるせぇなぁ。何時だと思ってんだよ? さあ、丑寅退治だ。頼んだぞ、サラマンダー君」
突風が顔を撫でた。白く輝く犬神が、箒星のように宙を舞う。
雷音を轟かせた巨虎は臆さず跳躍を見せる。
空中で剥き出しにされた影の牙が、光の矢を捉える。
「えっ!?」
「慌てるな」
ボトリと、地面に何かが落ちる。目を凝らすと、それは長く太い、黒くなった巨虎の牙だった。それは煙のようなものを上げると、立ちどころに影も形もなくなった。
「実体がないのは影も同じだが、所詮は光の副産物に過ぎん」
地に足をつけ、相まみえる両者の佇まいは、まさに光と影そのものだった。
犬神は背負った日輪を煌々と輝かせ凛として相手を見据えている。対して巨虎は、牙を失い、その全身を小さく委縮させていた。
ふと、どこからか鈴の音が響いてきた。その音に合わせるよう、光が強くなる。
「ワオーン!」
日輪から放たれていたのは、眩い、黄丹の光。痛みすら感じさせる、その強烈な光に、私は思わず目を細めた。
「神々しいねぇ……」
隣で、朝日でも拝むかのように、大賢者が呟いた。鈴の音に合わせ、光はさらに強くなっていく。影の獣が、為す術もなく、光に取り込まれていく。それが、私が限界まで目を開いているときに見た、最後の光景だった。
光が完全に引いたのを瞼の裏で感じ、そっと目を開く。
「キュオーン!」
そこには可愛らしい、いつもの姿に戻ったサラマンダー君がいた。あとはしたり顔の大賢者がいるだけで、巨虎の姿はどこにもなかった。
「……お疲れさま」
尻尾を振るサラマンダー君へと駆け寄り、彼の全身を撫でながら労いの言葉をかける。しかし、割り込むように一歩踏み出してきた大賢者が、平穏を許してくれなかった。
「そこまでだ。急ぐぞ、タル」
「どうしてですか?」
「じきに源泉が噴き出す。すると、この狭い洞穴の中で、間欠泉が爆発するかもしれん。そうなったら、今の俺たちに抗う術はない。ゆえに、ダッシュだ」
「え?」
「フハハハハ!! はい、よーいドン!!」
両手を叩いた大賢者は、この足場の悪い中、信じられないスピードで駆けて行った。
「待ってくださいよ、ちょっと!? もう……」
「キューン……」
サラマンダー君と一緒になって、どうしようもない主の背中を追う。
幻想、哲学、精霊。すべてが複雑に絡み合った、黄丹の洞穴の攻略。その幕切れは、高尚さとは正反対の、猛烈に汗臭いものとなった。




