135 火の加護
宿を離れた瞬間、世界は白く濁った蒸気に包み込まれた。先を見通すことも許さない、じっとりとした生温かい蒸気に、大賢者の陽気な声が吸い込まれていく。
「さあ、行くぞ。久しぶりの運動の時間だ」
「キュオーン!」
ハスキー犬にも似たサラマンダー君が可愛いのは周知の事実だが、お手製のレインコートに身を包んだ彼が、こんなにも可愛らしくなるとは思いもしなかった。私はほとんど無意識に手を伸ばし、フードから覗く丸い頭を撫でて、その極上の毛並みを堪能した。
「キューン……」
もっと耳のあたりを掻いてほしい。その愛らしい要求に応えていると、彼が着ているレインコートが手首に当たった。蜜蝋でも塗られているのか、感触こそ重たいものの、薄く仕立てられた生地は驚くほど機能性が高く、この蒸気の中でも一切の水分を寄せ付けていない。
「……こんなもの、いつの間に用意していたんですか?」
「すげぇだろ? ウマ用のもあるぞ?」
質問にまともに答えず、大賢者はしてやったりとばかりに口角を片方上げ、濃い蒸気の向こうにある厩舎へと視線を向けた。
「そういうことじゃないんですけど……」
どうやら自分で仕立てたものらしい。私は呆れつつも、彼が持つ幅広い知識とそれを即座に形にする確かな技術に、ただただ脱帽した。
「行くぞ?」
「はぁ」
生返事を返し、彼の背中についていく。両脚が、忘れかけていた疲労をずっしりと訴えてきた。唯一の救いは、彼の隣で軽快にレインコートを揺らす、サラマンダー君の姿だけだった。
蒸気の塊をかき分けて進んだ先では、仄かに輝く空間が口を開けて待っていた。オレンジ色の光を微かに溢すその洞穴の前で、先頭を歩く大賢者が足を止めた。洞穴の奥からは、風が不気味に唸る音と、豪雨のような、水が激しく打ち付ける音が漏れていた。
「ここが黄丹の……」
滑りやすい足元に残り少ない体力を奪われていた私は、最後まで言葉を紡がなかった。
洞穴に吸い込まれていった白い蒸気が、量を増して外へと押し出されてくる。
「ご名答」
巨大な生物の呼吸にも似た蒸気を浴びて、大賢者はご満悦の表情を浮かべていた。とっとと終わらせてほしい私は、構わず本題に迫った。
「で、どうやって攻略するおつもりですか?」
「どんな世界にもルールってのがある。ここはソフィーが作った世界だ。攻略なんて大層なもんは必要ない」
彼はその場でしゃがみ込むと、サラマンダー君からレインコートをはぎ取って、近くにあった岩の上に置いた。本来の姿を取り戻したサラマンダー君は、全身をぶるぶると震わせ、全力で尻尾を振って身軽になった喜びを表した。
「外しちゃって、平気なんですか?」
たっぷりの蒸気にまみれた洞穴こそ、コートが必要になるはず。そう思った私は、当然の質問を投げた。
「ああ。変身の邪魔になるからな」
「変身?」
「ソフィーは追いつめられることを嫌い、愛する者を甘やかす。このイベントにしても、まず最初に加護を授けてから、苦難を与えてくるはずだ」
彼が何を言ってるのか、理解ができなかった。私はゆっくりと鼻から空気を取り込んで、疲労で回らなくなった頭を回した。
捉えどころがないようでいて、その実、ソフィーさんは家族思いである。少々気まぐれなところはあるが、その点に関して彼女は一貫している。その証拠に、彼女は加護のイベントとは別にキラには杖を与え、馬車旅がひと段落するたび、行程の短縮を提案してきた。そんな彼女であれば、そういった構造にしていても、なんら不思議ではなく、考えるほどに辻褄が合ってくる。
しかし彼の言う『変身』については、よくわからないままだ。
「変身っていうのは、どういうことでしょう?」
「能力の限定解除だよ。加護を与えられれば、現実世界の能力の一部を取り戻す。ただそれだけだ」
限定解除。イルハレバナでアシハラも同じ言葉を使っていた。あのときは突飛な状況説明に気を取られてしまったが、彼は至極まっとうに、正しいことを伝えてくれようとしていたのだ。
「でも……現実の私にはこんな能力、ありませんけど?」
顎を引いて自分の肩を見る。そこでは小さな使い魔が、足をぶらつかせながら座っていた。
「それは単純に、お前があいつに気に入られてるからだ。俺の加護がある場所まで行けば、わかるんじゃねぇかな? きちんとした限定解除もなければ、加護と苦難の順序も崩してくるに違いない。きっと生身で空を飛べとか、そんなこと平気で言ってくるぞ? キラの場合、下手したら苦難自体がないかもしれん」
「……なるほど」
すべてが腑に落ち、未来が目に見える。
霧が晴れるように頭が冴え渡った瞬間、音が消え去り、洞穴から漏れ出ていた微かな光も完全に失われた。
警戒して身構えると、暗闇となった洞穴の入口から輝かしい石が放り出された。こぶし大の石が、コツリと音を響かせ、転がってくる。
黄丹色の光を纏ったその石は、サラマンダー君の目の前で止まった。彼は迷うことなく石をくわえ、そのまま飲み込んでしまった。
「えっ!?」
針が刺すような甲高い共鳴音が、鼓膜を震わせる。
まばゆい光に包まれたサラマンダー君は、直後、日輪を背負う白く大きな犬神へと変貌を遂げていた。
「ワオーン!」
その遠吠えが生み出した圧倒的な浄化の光は、周囲の蒸気はおろか、洞穴の内部まで、すっきりと鮮明に照らし出した。
「さあ、行こうか? 苦難の時間だ」
すべてを見通していた男は、いつものように、軽やかに口と足を動かし始めた。




