134 高級宿と相互扶助
濃い蒸気に巻かれ、視界を奪われ続けた外とは打って変わり、そこはひんやりとした澄んだ空気で満ちていた。
石筍をくり抜いて造られた宿の中は、特有の湿気はあるものの、不思議とカビ臭さがない。まるで浄水魔法をかけたかのような、硬質で透明感のある水の匂いが微かにするだけだった。
天井から吊るされたガラスの照明器具が、館内を儚く照らしている。ミルク色を帯びた滑らかな壁と、肉厚なオレンジ色の絨毯が敷き詰められた細長い廊下を歩けば、ゆったりとした奥行を持ったフロントに出る。
「いらっしゃいませ。お泊りでしょうか?」
「ああ、六人と一匹だ。よろしく頼む」
財布を握るソフィーさんと並んで立ち、私は大賢者の背中を眺めていた。ふと、他のメンバーの動向が気になり、部屋の隅へと視線を走らせる。
「あぁ、ダメだな。別に疲れてないけど、なんかダメだ。はやく横になりたい。なぁ、ゼノ?」
「ピ……」
広いラウンジに設置されたソファセットでは、キラとピィちゃんが全身を預け、強張った筋肉をあくび混じりに伸ばしている。そのそばに立って、優しく見守っていたのは、ここまで手綱を握り続けてきたアシハラと忠犬サラマンダー君だ。こちらの二人に関しては、特に疲労の色を見せていない。
「やっぱり、もっと短くした方がいいかしら?」
ささやき声が耳をかすめる。顔を戻すと、ソフィーさんがその身をかがめて、真剣な表情を向けてきていた。
「そう、かもしれませんね……」
馬車旅というのは、そうそう都合よく何かが起こるわけでもない。退屈と言ってしまえばそれまでなのだが、ここまでの行程を踏まえると、全員が楽しく旅をできるのはどうにも三日が限界のようだった。
再び、リーダーの背中へと視線を戻す。子供たちの精神的疲労を思えば、旅程の短縮を提案するのが正解なのだろう。が、大賢者の意思を否定するようなその正論が、私の胸の奥で小さく燻る。その気持ちをはぐらかせないかと、私の目は無意識に他のものを映していた。
カウンターの向こうに立つ、一枚仕立てのガウンを纏った男性店主。エシュ・ヤハドの蒸気がそうさせているのか、ふくよかな体型をしたその店主は、触りたくなるようなもっちりとした肌つやをしている。
「費用はおひとり様、三十リーブとなります」
「三十リーブぅ?」
眉間にしわを寄せ、渋い表情を浮かべた大賢者がこちらへと振り返ってきた。だが、これについては想定内。私は、完璧に整えていた理論を吐き出した。
「外は視界も悪いですし、この時間に他の宿を無暗に探し回っても、無用な事故を引き起こすだけです。温泉地ということを考慮すれば、値段も妥当と言えるのではないでしょうか?」
「おう、まだこっちがなんも言ってねぇのに……さては準備していたな?」
私は臆さず、黙して彼を見つめ続けた。すると彼は、極上のアルコールを煽ったかのように、目を閉じて少しだけ顔を仰がせながらニヤリと口元を緩ませた。
「まあ、いいさ。献身的なお前が、たまに見せるおねだりくらい叶えてやらなきゃな? ソフィー、勘定を頼む」
大賢者がそう言い終わるか終わらないかのタイミングで、カウンターの向こう側から店主の丁寧な声が響いた。
「現在、いつも以上に激しい湯けむりのため、窓は完全締め切りとさせていただいております。なにとぞ、ご理解とご協力をお願い申し上げます」
「いつも以上?」
やはり外の蒸気量は異常だったらしい。脅威を肌で感じていた私は、つい割って入ってしまった。
「はい。源泉のある、黄丹の洞穴からの湯気が止まらないようでして。私どもも、困り果てて……失礼いたしました。お支払いの方は、奥様から?」
一転して濃厚なメインクエストの香りが漂う中、大賢者は構わずソフィーさんの背中を乱暴に押した。
「ちょっと、押さないでよ」
彼女は文句を言いながらも、いつものように、スマートに会計を始めた。
メインクエストである加護の気配に、行程の短縮の件。
どちらの話題を、誰にどう切り出したらいいものか。会計を終えたソフィーさんが振り返ってくるまで、私は疲れた頭を抱え、悶々と時を過ごした。
ドアを開けた瞬間、キラが部屋の中心へと駆けだした。
「すっげぇ!」
「わぁ……」
彼女のあとに続いた私も、思わずため息を吐いた。そこは広いダイニングを中心に、ドアのない七つの個室が内包された大部屋だった。
床から壁、そして天井に至るまで、磨かれた大理石のような滑らかな光沢で包まれている。
天井はそこまで高くはないが、くり抜かれた壁面に飾られた花瓶や、風土を感じさせる小さな装飾品が、空間の広がりを感じさせてくれる。
各部屋の境目には、可動式の衝立が添えられていた。今はそれらがすべて開け放たれ、遮るものがないため、開放的な雰囲気に満ちている。
個室に設置されているベッドは、豪華にも天蓋付きのものだ。しかし、どの部屋の窓も、水滴を垂らしながら激しい蒸気を映すばかりで、それだけが残念でならなかった。
「じゃあ、行くか!」
どこへ、と言いかけた口の形を変える。その男は、明らかに私を見て声をかけてきたからだ。
「……明日じゃ、ダメなんですか?」
本当に、真剣に、真面目に、そう思った。四日に及ぶ馬車旅を終えたばかりで、体力も精神も万全じゃない。なのになぜ今、大賢者はそんな馬鹿な提案をしてきたのか。まったく理解ができなかった。
「別にいいだろ? 死なないんだから。それに、俺はこういう世界に来るのを、ずっと夢に見ていた。全クリしたら、この世界がどうなってるのか、隅々まで歩いて確認しようぜ?」
「それについては、どうぞ、お一人で楽しんでください」
この男に舵取りを任せてはならぬ。
そう確信した私は、彼の許可なしに、行程の短縮をすることに決めた。
「パーティを決めよう!」
そんな決意も知らずに、大賢者は腕を組んで全員をぐるりと見渡した。
「まずは、サラマンダー君。この街にあるのは、キミの加護だ。一緒に来なさい」
「キュオーン!」
サラマンダー君は、主人の指名に尻尾を振りながら勇ましく応える。
「で、あとは俺とタル。以上!」
「私も行きたい! 私も行く!」
手を上げて、活発に飛び跳ねながら、キラが名乗りを上げてきた。
「ダメだ」
「なんでぇ!?」
「夜。洞穴。こんなところ、行っても怖いだけだろう? 危ないし」
「……それも、そうだな」
支離滅裂という言葉が、これほどふさわしい場面もない。
第一、危険とわかりきっている場所に、彼はなぜ、私を条件もなしに連れて行こうとするのか。理不尽もここまで来ると、笑えてくる。
逃避した笑いを浮かべるしかなかった私に向かって、大賢者が見透かしたように微笑んできた。
「実にいい宿だ。もっと値段を取ったって納得できる、極上の部屋。お前も、そう思うだろ?」
そういうことか。
言わば、これは相互扶助。世界一厄介な男にわがままを突き通す、その危険性を見落としていた私に落ち度があったわけだ。
「かっこつけてるけど、タルちゃんがいないと寂しいだけでしょ?」
この世界の創造主でもあるソフィーさんが、彼女にしか見えない高みから言葉を放った。
「うむ!」
真実は、どこにあるのやら。大部屋に響く堂々たるその声は、絞り切られた私の心に虚しくこだました。




