133 夜の街エシュ・ヤハム
その街へ近づくほどに、時間の境界線は曖昧になっていく。紫とオレンジの光が地平線をせめぎ合う、マジックアワーの大湿原を越えると、空からは色が剝がされていった。頭上に広がる静寂に押し潰されるよう、私たちが乗る馬車は坂を下り、永遠の夜を抱く『エシュ・ヤハム』へと吸い込まれていく。
「温泉があるんですかね?」
「そうみたいだねぇ」
街道の足元からもくもくと雲のように昇ってきたのは、湿った土と岩の匂いを纏う水蒸気だった。淡い琥珀色をした渓谷の底からは、ゴボゴボと源泉の湧き出る音も聞こえる。
馬車が高度を下げるたび、蒸気が色を変える。乳白色の向こう側に、ぼんやりと何かがそびえ立っているのが見えた。それは尖った岩か、あるいは巨大な結晶のような、異様な形をした建造物群のシルエットだった。
「へえ、面白い!」
声を張ってアシハラが驚く。滅多に出さないその声量に動揺したのか、ウマがいなないた。
「ゴメンゴメン、おっきい声出しちゃったね」
手綱をきゅっと引き締め、彼は「ドウ、ドウ」と低く声をかけてウマを落ち着かせた。徐行を続けて下っていた馬車が完全に止まった。
「どうしたんですか、急に?」
「いや……シルエット的に、たぶんこれ、石筍でできた街並みだと思って。温泉といい、渓谷の色合いといい。なんか懐かしくなって、興奮しちゃった」
「懐かしい?」
「この前、話したじゃない? 実家の近くが温泉街で、って。そのつながりで」
「なるほど……それにしても、アシハラさんも驚いたりするんですね?」
鉄人に隙を見つけた私は、意地悪く笑いかけた。照れたのか、とぼけたのか、彼は下を向きながら小さく唸った。
「そうかなぁ? これでも日常生活では毎日、驚きっぱなしなんですけど……」
それについては、私も同じ立場だ。全面的に同意できる。私が苦笑を返すと、気を持ち直したのか、彼は顔を上げて、いつものように背筋を伸ばして前を見つめた。
「でも、本当にごめんなさいね。到着まで、もう少しのところで止めちゃって。気を張って参りましょうか」
街の門まで、まだ距離がある。坂の傾斜もきつく、あまり気を抜ける状況ではない。私は地図を広げたまま大きく頷き、前方へと神経を集中させた。
真っ白な蒸気に包まれた町は、まるで呼吸をするように多様な色彩の光を明滅させている。植物由来の発光も含まれているのだろうが、これまでの経験から、なんとなくその正体の察しはついた。
「あぁ、まただ」
こちらの顔に向かって、アシハラがそっと手を伸ばしてきた。すぐに引き戻された彼の太い指先には、鮮やかに尻尾を輝かせたホタルが乗っていた。
自分の肩へと目を向けると、そこにはイブがちょこんと座っている。この小さな使い魔には、どうにもホタルの止まり木にされやすい性質があるらしい。
イブは常に私の死角にいて、そのうえ物が言えない。だからこうして、アシハラが真っ先に気づいては、何度も追い払ってくれていた。
ふっと息で弾き飛ばされたホタルが、蒸気に乗せられ、闇夜に舞い上がる。
「綺麗だけど『毒虫』だから。気をつけなきゃね?」
まったく使い魔らしくないイブは、自らの意思でぺこぺこと頭を下げて彼に感謝を告げた。
「はっは。じゃあ行こうか」
蹄の音が重たく響く。再び動き出した馬車は、幻想的な夜の街へと近づいていった。しかし私は、目の前の街よりもっと近い、現実的なことが気になって仕方がなかった。
「さっきも言ってましたけど、『毒虫』って、どういう意味なんですか?」
「……わからない」
全身から力が抜ける。横目でこちらを見ていたのか、アシハラはふと笑いを漏らして言葉を続けた。
「子供のころ、実家の周りには、よくホタルが出てね。そのたびに、ゲンヨウの親父がよく言ってきたんだよね。『それ、毒虫だから、あんま触んじゃねぇぞ』って。たぶん、子供に虫を触らせないための噓だったんだろうけど、それと同じことをやってた。無意識で」
「じゃあ、実際に、毒があるわけではないんですね?」
「うん。ほぼ無害」
「なら、よかったです」
リラックスできそうな温泉街が、毒にまみれた街じゃなくてよかった。心の底からそう思いながら、私は改めて、アシハラの冗談に笑わせてもらった。
しかし、そうしていられたのも束の間。すぐに不穏なものを感じる。
「この蒸気……いくら何でも、多すぎませんか?」
坂を下るほどに視界が悪くなっていく。手綱に集中しているアシハラには悪いが、私はその不気味さを、どうしても口にせずにはいられなかった。律儀なことに、彼も一緒になって首を傾げてくれた。
「……熱量が多いのかもしれないね。安全確認というか、一応『視』てもらえます?」
「はい」
目を閉じれば、夜の闇も閉ざされる。私は肩に乗るイブへと意識を集中させた。
「どうです?」
「ちょっと……お力にはなれないかも、です」
『視』えたのは、私の隣に座る男が異常な手綱さばきを発揮しているという事実だけだった。
イブの目が映した世界は、私が見ていたものとほとんど変わらなかった。異常な量の蒸気の中で、石筍の街のシルエットだけが浮かび上がっている。しかもその町並みは、何色もの光によって煌々と照らされている。そんな中、アシハラはウマの僅かな重心のブレを読み取り、正確に進路を保ち続けていた。
それでも私は何とか力になりたくて、今の自分にできることを全力で行った。
「でもこのまま、まっすぐ進めば、宿があることだけは確かです」
視界の先で揺れ動いていたのは文字列だった。建物の中にいる店主の動きに合わせた、不規則な動きだ。表記内容は、部屋と料理のグレードを表す星と宿泊費。星はどちらも満点の五つがつけられ、費用は一人当たり三十リーブとなっている。
「あいよ。まっすぐですね?」
六人と一匹、掛ける三十リーブ。
私欲にまみれた案内役として、その事実は伏せておく。長旅でアシハラだって疲れている。すぐにでも、宿のふかふかのベッドで横になりたいはず。何よりも、美味しい晩餐のためには、多少は費用がかかっても、やむを得ない。
「どうしたの、イシュタル殿?」
目には見えない、何かが漏れ出ていたのだろうか。アシハラはめざとく、どうもしていない私を心配してきた。
「いいえ。事故には気をつけてください」
「え? 何か『視』えるの?」
「いいえ。どうぞ手綱だけに集中してください」
「あぁ……そう……」
蒸気をかき分けながら、馬車がゆっくりと下っていく。
白煙に包まれるエシュ・ヤハム。その突入は、身内の目を眩ますところから始まった。




