132 黄昏の牙
空は深い茜色に染まり、湿原を埋め尽くす葦が、その光を反射させながら怪しく揺れ動く。果てしなく続く石畳の街道を転がる車輪が、規則正しくリズムを刻む。
「パカポコパカポコ、パカポコだな!」
御者席に乗り込んだキラが、楽しそうに蹄の音を口にする。午後の行程に入って、もう二時間ほどが経過しているが、乗り物酔いもしていない。湿り気を帯びた哀愁のある風も、彼女の笑顔の前では無力になってしまうようだ。隣にいるだけで、つい私も表情が緩んでしまう。
「よかったな、ウマァ! 蚊が寄ってこなくなって!」
後ろを振り返ると、絢爛な馬車の隅には、例の『おとりブーツ』がぶら下がっていた。馬車はかなりの高速で動いているにもかかわらず、そこには無数の蚊が群がっている。午前中はあれらが全部、ウマの顔の周りにたかっていた。臭いものに蓋をしない、大賢者のまさかの発想とキラの小さな魔法が、午後の旅を快適なものにしてくれていた。
「イシュタル殿、時間はいかがですか?」
手綱を握るアシハラの声が、キラ越しに聞こえてきた。私は腕時計をちらりと見て、告げた。
「ちょうど、半分を過ぎたあたりです」
「もう半分か。このまま、どこまでも行けそうだけどなぁ」
「そんなことしたら、ウマがかわいそうでしょう?」
言い方こそのんびりしているが、即座に正論を挟むこのスピード感は、アシハラにしか出せない。もしウマが大丈夫なら、あなたはそれに付き合えるのか。そう尋ねたくなるが、鉄人相手にそれは愚問というものだ。
「そっか……ずっと走りっぱなしだもんな」
素直なキラは身を大きく前に出して、フサフサと揺れるウマのお尻を撫で始めた。
「やーめなさいって……ん?」
片手でローブを引っ張って彼女をたしなめるアシハラだったが、ひくりと鼻を動かすと穏やかだった表情を完全に消した。ただごとではないと予感した私は、即座に思考のスイッチを切り替えた。
「獣臭だ。イシュタル殿、そちら側から確認をお願いします」
「はい。キラ、ちょっと杖借りるね?」
座席の下へと手を伸ばす。
「敵が来るなら、私がやるぞ?」
「……ダメ」
一瞬だけ考えたが、やはりここは私が動くべきだと思い直した。座席の下に固定されていた杖をさっと手に取り、馬車の手すりに足をかけ、身を乗り出して前方を注視する。
が、何もない。そもそも、この広大な湿原を一人で確認しきるのは不可能。そう判断した私は鉄人に指示を仰いだ。
「方角は?」
「えーっとね……七時、八時方向。イノシシか、なんかだと思う」
後ろは予想外だった。見れば、はるか後方の葦が、不自然なほどにまっすぐな線を描きながら、こちらへと向かっていた。
「確認できました」
「キラ殿、これ、ウマの耳に詰めてあげて」
「おう!」
敵はイノシシ、そして耳栓。使う魔法の方向性が固まった。
「ウマ、大丈夫だぞ? よしよし……」
身軽に鞍へと飛び移ったキラが、手にした布をウマの耳に優しく詰め込む。その様子を確認してから、杖を宙に向ける。
「ちょっと音出るよ?」
微かに振動した空気が伝えたのは、遠くで針が落ちたような、弱々しい音だった。
これほどまでに弱体化されているとは思わなかった。
瞬時に作戦を立て直す。この小さなエネルギーを叩きこむとしたら、どこに叩き込むのが最も効果的か。
考えるまでもなく、頭蓋骨だ。
骨伝導によって正体不明の音を聞かせられたイノシシは、どこから攻撃されているか分からずパニックを起こす。もしくは脳が錯覚を起こして、本能的にブレーキをかけてくれるはず。
頭蓋骨を共鳴点とする。
魔法界で最低最悪の発見と言われ、秘匿戦争でも猛威を振るった『音の魔法』。因果を感じながら、私は感情を殺す。揺れ動く葦が、すぐそこにまで迫っていた。
「うわ!? でっか!!」
ガサリと飛び出してきたイノシシのサイズを見て、キラが声を張り上げた。巨岩のような真っ黒な肉体を現した標的は、体中にまとわりついたダニをボロボロと街道にまき散らしながら並走を続ける。
ウマがその巨体に怯えて激しくいなないたが、耳を塞がれているおかげで、かろうじて暴走せずに持ちこたえていた。
「キラ殿、安心させてあげて?」
「よしよし、だいじょぶだ。今、タルがやっつけるから。愛してるぞ?」
隙は見せない。集中。音、匂い、そして色。私は愛する家族のため、すべてを遮断する。
杖を身構え、疾走する巨体の頭部に狙いを定める。標的は血走った眼でこちらを見ると、ブルッと振った首を低く構え、剥き出しの牙を突き立てるようにして突進してきた。
がら空きだ。
杖先から放った微弱な魔法を、丸見えの脳天へと突き刺す。
コンマ数秒。標的は何事も起きていないかのように突進を続ける。
コンマ一秒。標的は平衡感覚を失い、自分の体重に裏切られる。
コンマ零秒。標的は地に伏せ、その影をみるみる小さくしていく。
「ふぅ……」
風の音が、顔にかかる髪の鬱陶しさが、黄昏に染められた世界が戻ってくる。
「すっげぇ!! なにをしたんだ!?」
私以上に喜んでいたのはキラだった。いつの間に移動していたのか、彼女は後ろから、温かい両腕で私を包み込んできた。
「すごいね。名人芸だよ、本当に」
すごいのはアシハラの方だった。彼は私やウマを完璧に信頼して、一切スピードを変えなかった。おかげで何の計算をする必要もなかった。
「はい! タルの魔力確認! 何した、お前?」
大賢者までが馬車の小窓から顔を出して、この騒ぎに駆けつけた。
「タルがイノシシをひっくり返した! こーんなでっかい、きったねぇヤツ!」
「なにぃ!? そうだったら、さっさと俺を呼べよ、このぉ!! 俺は大賢者だぞ!? 秘書官の活躍は、見ないとダメだから!!」
どこまでも続く夕暮れの湿原に、意味不明な叫びが響く。ため息を吐きながら腰を下ろし、腕時計に目を落とすと、午後の行程はまだ一時間四十二分も残っていた。
「タル、今日のキャンプでお前、武勇伝担当な?」
「勘弁してください」
大賢者の要求には、後ろを振り返らず答える。
「つまんねぇ、つまんねぇ、つまんねぇって!! お前の武勇伝を聞くまで、あと二時間も仮眠しろって言うのかよ、おぉん!?」
「人の話を聞いてください。話すとは言ってませんし、キャンプまで、あと一時間四十二分です」
前を向いたままぴしゃりと跳ね返してやる。キラとアシハラがお互いに顔を見合わせて笑ったのが、横目にチラっと映った。
「細けぇなぁ。メカかよ、お前。あったまきた。あと一時間四十二分、きっちり付き合ってもらうぞ?」
「いつまでも下らないことにこだわってないで、さっさと仮眠してくださいよ」
「お? なんだ? 反抗的だなぁ? そっち行ってやろうか? 待ってろよ、この……」
もう二分は経過しただろうか。本意ではないが、今日のところはキャンプまで、暇を持て余さずに済みそうだった。




