131 スーパーヒロイン
熱々のうどんを頬張って、スープまで飲み切れば、かっかと体が温まる。
「ごちそうさまでした」
空っぽのお椀を置き、汗ばんだ額を拭う。すると、頭上から心地のよい、ひんやりとした風が流れてきた。
「どうも、お粗末様でした」
首尾よく戻ってきたアシハラが食器を重ね、手早く片付けを始める。彼が動くたびにふわりと、ラベンダーのようないい香りが漂った。
「いい匂いですね。何の匂いですか?」
「匂う? 今、ウマに虫よけオイルを塗ってきたから、その匂いだと思う。効果は、お気持ち程度だけど」
「虫よけか……」
自分の食器をアシハラが持つ大鍋へと放り入れた大賢者が、会話に割り込んできた。
「由々しき問題だな。お前らも、蚊に刺されまくって、顔がボッコボコになるのは嫌だろう?」
本気なのか、それともまた、劇場が始まってしまうのか。どちらとも言えない彼の態度に、私は無表情で中立を貫いた。
「嫌だろう!?」
劇場だ。
アシハラはそそくさと馬車の中に入り、ソフィーさんは愛用のキセルを手にその場から立ち去る。子供たちとサラマンダー君は、離れた場所にいるウマと親睦を深めている真っ最中。
誰を恨んでも仕方がない。いつものように、私だけが大賢者の相手をする。
「そうですね」
聴衆は私しかいないのに、彼は満足げに微笑みながらタバコをくわえた。彼はそのまま、焚火の脇にあった薪を掴んでワイルドに火を点けると、ゆらゆらと昇っていく煙の先を見つめ始めた。
質問を待っている。主のことならば熟知している私は、すぐに作られた沈黙を破った。
「虫よけの方法が、あるんですね?」
「……無い!」
なんなんだ、もう。
その勢いと投げやりな言い方に、まんまと笑わせられた私だったが、同時に人生を返してほしくなった。すぐさま表情を引き締め直し、彼へと迫る。
「何が言いたいんですか、結局」
「虫よけは無理でも、虫寄せはできる」
「虫寄せ?」
私は本能的に、馬車に吊るされたランプを見た。そこでは、湿原を走っていたときより数は減っているものの、羽虫たちが仲良く踊っていた。
「おとり用の、専用のランプを作るってことですか?」
「近いが、違う。血を吸う虫っていうのは光には集まらん。熱や汗のニオイなんかに反応する」
「じゃあ……お手上げじゃないですか」
タバコと焚火の熱、そして額にかいた汗。状況を見れば見るほど、蚊にとっての楽園が、今この場で繰り広げられている皮肉に気づく。
「ところがスーパーヒーロー、いや、ヒロインかな。そいつが今、この場所にいる」
私ではない。絶対に。
祈りに近い願いを込めながら、最初にソフィーさん、それからキラへと視線を走らせる。瞬間、大賢者が息を漏らして笑った。
「正解だ。おい、キラ!!」
無駄に高いカリスマ性が、ウマまで含めた全員を振り向かせる。手招きする大賢者に明るい表情を向け、彼女は駆け出した。
「なんだ?」
すでに蚊の被害に遭っているのか、ポリポリと腕をかきながら彼女はやってきた。
「ついに出番だ。お前が履きつぶした、あのブーツを持ってこい。ついでに、杖も忘れるな?」
「わかった!」
元気よく返事をし、背中を見せた彼女だったが、こんなときこそわかっていないことが多い。心配した私は念を押す。
「ブーツと杖だからね!?」
「わかった! ブーツと杖!」
とんでもない破壊兵器も、こうして役に立つ時が来るのか。私は震えながら彼女が戻ってくるのを待った。
ゴマのいなり寿司だ。
時間をかけて戻ってきたキラの口元を見て私は思ったが、それはこの際どうでもいい。彼女は忘れることなく、杖も、嗅いだ者の気持ちを奈落の底に突き落とすブーツも持ってきてくれた。焚火という団らんの場があって、これだけ時間が経ってもなお、誰も近寄ってこないが、私は大満足だった。
私はなるべく鼻で息をしないよう、彼女へと近づき、汚れた口元を拭ってやった。
「遅いぞ、お前」
大賢者は遠慮なしに厳しい言葉を飛ばす。
「きっしっし」
打たれ強いキラは意に介さず、華奢な見た目とは裏腹な熟達した笑い声をあげた。それから、手に持ったツンとした臭いを漂わせるお古のブーツを大賢者へと手渡した。
「で、この中に……」
凶悪なブーツの間口を素手でパクパクと開いて、よく平気でいられるものだ。そんなことを思いながら、私はローブの袖口で鼻を覆い、再び座り込んだ。
「照明魔法を入れる」
「照明? 光には寄ってこないんじゃ?」
「光じゃなくて、発生する熱を利用するんだよ。火だと燃えちまうからな。ちょうどいい熱量を生み出せれば、それだけで虫寄せが機能するようになる」
「なるほど……」
口を開けたまま、私たちの会話を聞いていたらしいキラへと視線を移した。彼女の手には、エハドで手に入れたばかりの杖が握られていた。
「ほれ、照明魔法」
大賢者は異臭を放つ邪悪な暗穴を彼女の方へと向けた。目も当てられない残酷な仕打ちに、私は思わず顔を背けた。
「え? レオがやるんじゃないのか?」
「アホ! 俺は今、使えねぇんだよ」
「あ、そっか! よし、まかせろ!」
微笑ましいはずのいつものやり取りも、臭いが邪魔をしてちっとも笑えなかった。
真剣な表情で杖を構えるキラ。彼女は今、どんな気持ちなのだろう。頼れるようで、情けなくもある。私は複雑な気持ちで、成り行きを見守った。
「やあぁぁ!」
ポコン、と出てきたのはビー玉サイズの小さな光の球だった。薄い紫色で、淡く、儚く輝いた球は、ポテリと音を立ててブーツの中へ落ちていった。
やはり、この世界での魔法は相当に弱い。これでは熱が足りそうになかった。
「もう少し、数を出せるか? 終わったら、もう片っぽのブーツにも頼む」
「うん!」
真剣な表情で作業に打ち込む二人を見て、これでいいのだ、と安心に似た気持ちに包まれる。普段、誰かに頼られることのないキラにとって、これは大きな成功体験になる。そう思うと、このバカバカしい光景が、とても素晴らしいものに思えてきた。
さすがは、大賢者様。
少しだけ皮肉も込めて、今回も見事な劇場を作り上げてみせた、彼の横顔を眺める。
「上手いじゃねぇか。いい感じにあったまってきたぞ?」
「そうか?」
「ああ。蚊の攻撃から愛する家族を守る、お前こそがスーパーヒロインだ」
「きっしっし」
徐々に温められ、臭気に磨きをかけたブーツが、感傷的な気持ちに浸ることを許してくれなかった。




