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大賢者の秘書官イシュタル ~何者でもない魔女の一生……になるはずだった~  作者: ふるみ あまた
5章 ゲームの章

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130 うどんがもたらす不和と調和

 

 見渡す限りの泥と葦の世界のただ中に、それはぽつんとそびえ立っていた。湿原に浮かぶ孤島のような、巨大な岩山。その中央を割るように伸びる亀裂に、街道が吸い込まれていく。


 湿った蹄の音が、固い岩肌を叩く音へと変わる。速度を落としたウマが入ったのは、高い岩壁に挟まれた切り通しだった。


 左右から迫る巨壁が太陽の光を完全に遮る。先ほど感じた冷たい風の正体は、この場所で淀む空気だったらしい。


「もうちょっとだけ、行きますね」

「はい」


 先ほどの会話も相まって、不吉なものを連想した私は少しだけ気を揉んだが、すぐにアシハラの言う通りになった。


 影に包まれた回廊から一転して、スポットライトのように日が差し込む広場に出たところで馬車は停止した。


「はい、到着です。お疲れさまでした」

「そちらこそ、お疲れさまです」


 挨拶もそこそこに、御者席から降りた私は両手を思い切り突き上げて、凝り固まっていた背筋を伸ばした。引き絞られるようにして、顔がぐいと上を向く。


 天井に空いた大きな穴の縁には、木の根がカーテンのように垂れ下がっていた。


「わぁ……」


 岩壁にびっしりと茂る濡れた苔たちが、吐息まで吸い取る。


 圧倒的な静寂の中心には古い焚火の跡があり、崩落した岩がベンチ代わりとして並べられていた。


「どうして、こんな場所があるって、わかったんですか?」

「ん? わかったというか、見えてたから」


 恐るべし、侍の暗視能力。


 感心する間もなく、馬車の扉が勢いよく開かれた。


「いぇーい!! ご飯だぞ、ウマァ!! イテッ」


 昇降口に備えられた踏み台を使わず、ジャンプで着地したキラの額に、岩塩のネックレスがゴツリと当たった。


 呆れつつアシハラの顔を見ると、彼も同じような表情をして、こちらを見下ろしていた。





 焚火にかけられた大鍋を六人と一匹でぐるりと囲めば、どこであってもそれが私たちのランチタイムになる。


 鍋はぐつぐつと煮え立ち、小麦の豊かな香りと安心できる出汁の匂いを含んだ湯気が、幻想的な空間に広がる。


 今日のメニューは『うどん』だ。現在、私がいるのは、旧世界に存在していた大陸を模した『リシオン』である。


 そんな中、なぜ用意された昼食が『うどん』なのか。何度自問自答しようが、私の手に収まるお椀に入れられているのが『うどん』という事実に変わりはない。


 熱々の出汁と麺が絡み合う、とてつもなく美味しいこの煮込みうどんは、今はウマのためにサクサクとリンゴを切り刻んでいるアシハラが作ってくれたもの。だが悲しいことに、それを大して食べ進めず、倦怠感たっぷりの吐息を漏らしながら箸を置く、不届き者が現れてしまう。


「ふぅ……」

「なんだ、ソフィー。もう食べないのか?」


 まだ少しおでこに赤みの残ったキラが声をかける。


「ええ。あまり好きじゃないのよね」


 だったらなぜ、わざわざそんなものを作り出した。


 そう思わずにはいられなかったが、いちいちそんなことに突っかかっていたらキリがない。無理やり自分を納得させた私は、ギリギリのところまで出かかった言葉を飲み込んで、もっと別の、楽しいランチタイムにふさわしいポジティブな話題に変えようと試みる。


「ソフィーさんって、うどん、お好きじゃありませんでしたっけ?」


 彼女という人物を深く知ることが、自分自身に与えた課題であり、この世界を攻略する近道でもある。悔しい気持ちは残るが、価値観の共有を一旦諦めた私はそのことだけを考えて、彼女に歩み寄った。


「ツルっとしたやつなら、ね」


 悪びれもせずにっこりと答えるソフィーさんだったが、当然、矛盾を感じずにはいられない。


「まぁた、わがまま放題言いやがって、お前は! 乾麺が嫌なら、生のうどんをしっかり作り込んでみせろ、このバカが!」


 大賢者の持ち前の口の悪さが、珍しくいい方向に機能した。ちょっとしたことで抱えた私のモヤモヤは、そこでチャラになった。


 そうした気持ちも露知らず、彼は強引に手を伸ばして、ソフィーさんが持っていたお椀をひったくった。


 ズビズバと盛大に音を立ててむさぼり食らう大賢者と、ツンと表情を尖らせたソフィーさん。いつでも機嫌が正反対の、この夫婦が並んで座っている光景は何度見ても不可思議で、なぜか落ち着くものだった。


「はい、どうぞ」


 声のした方へ視線をスライドさせると、アシハラがサラマンダー君にリンゴの芯や種の部分を与えているところだった。お望みの品を口にできて満足したのか、サラマンダー君はペロリと一度だけ舌なめずりをすると、口からボッとオレンジ色の炎を吐き出した。


「おぅっ? 眩しい! やめろやめろ」

「キューン……」


 抗議の声をあげながら、キラがサラマンダー君を抱きしめる。理不尽に全身の自由を奪われようとも、サラマンダー君は抵抗するそぶりすら見せなかった。


「どっこらしょ、と」


 オジサンらしい声を出して巨体を立ち上がらせたアシハラは、ウマの方へと体を向けた。


「ピ」


 そんな彼の袴の裾を掴んで進行を阻んだのは、ちんまりとしたサイズのピィちゃんだった。


「一緒に行く?」

「ピィ!」

「私たちも行くぞ! な?」

「キュオーン!」


 ウマのおやつタイムへと仲良く足並みを揃える、三人と一匹。これもまた、いつもの光景だった。


「タル」


 大賢者の呼び声に、反射的に顔を戻す。


「箸が止まってるぞ?」


 すでに食事を済ませていた彼は口角を片方だけ上げ、私を見ていた。


「……すみません」


 ウマの体調を考慮して、昼休憩はたっぷり二時間、時にはそれ以上の時間をかけて取る。とは言え、一人の遅れが、全体の歩調を乱すリスクを孕んでいることに変わりはない。


 やんわりとした注意を受けてなお、私はソフィーさんの様子が気になって、彼女の顔をちらりと覗き込んだ。


 こちらを見て、声を出さずにフッと笑った口元は小さな弧を描いていた。


 こんなときにだけ感情を合わせるなんて、心底救いようのない人たちだ。そう思いながら、私はようやく自分の箸を動かし始めた。

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