129 微小の湿原
エハドを発って二日目。清々しい緑がうねっていた草原地帯は、草の隙間から覗く水面が太陽の光を鋭く反射させる湿原へと変貌を遂げていた。
チラチラと視界を射る光に目を細め、視線を落とす。百キロ先の『エシュ・ヤハム』は渓谷にあるようだが、そこにたどり着くまで、どこまでも平坦な湿地帯が続いている。
私はあくびを噛み殺しながら羊皮紙を丸め、カバンの中へとしまい込んだ。
相変わらず御者席は一定のリズムで揺れ動き、蹄の音はポテポテと響いている。長い芦色の体毛を揺らしながら、ウマは高いペースを維持して走り続けていた。
「飴を、いただけますかぁ?」
「あ、どうぞ。すみません、気がつかなくて」
「いえいえ」
手綱を握るアシハラに、飴の袋を差し出す。出発時はパンパンだった袋が、今や見る影もなく萎んでいた。
この平和な風景に参りそうになっていたのは、私だけではなかった。景観は変わろうとも、変わり映えのしない街道の馬車旅は、別の意味で過酷なものだった。
「ふぅ……休憩まで、もうちょっとですよ? 頑張って?」
薄荷の匂いを漂わせながら、アシハラは前方に向かって優しく声をかける。その言葉を理解したかのように、ウマは大きく鼻を鳴らして応えた。
「信頼されてますね?」
「うん……旅が終わったら、泣いちゃうかも。おっと!」
瞬間、アシハラは眼前に迫った石つぶてのような塊を避けた。けたたましい羽音を立てたその正体は、カナブンのような虫だった。
「よく避けられましたね?」
「危なかったね。もう少しで、口に入っちゃうところだったから」
中年男性らしいひょうきんな言い方に、私は笑った。一切ぶれることなく標的を見ていた彼がそんな目に遭うことはあり得ないからでもあった。
「それにしても、虫が増えましたよね?」
この地域に足を踏み入れてからというもの、シカやウサギといった動物を見かけることは少なくなっていた。その代わり、金属のように体表を光らせる先ほどの甲虫や糸のように細い体を持つトンボ、透き通った薄氷のような羽をもつ蝶などが目につくようになっていた。
「湿原だからね。昆虫たちにとっては極楽でしょう」
「……極楽?」
いまいちピンとこなかった私は言葉少なく、言葉が足りないオジサンに詳細を迫った。するとアシハラは、手綱を握り直しながら視線はまっすぐに、のんびりとした口調で続けた。
「そう。流されず、干上がらず。虫の子供たちにとっちゃ、これ以上ない安全な場所」
「もうちょっと詳しく、聞かせてもらえませんか?」
いい眠気覚ましになりそうだ。そんな戯言で自分をごまかした私は、身を乗り出したくなるのを堪えながら、今度は直接要望を口にした。
「えっとぉ、まあ、そのままですよ。川みたいに激しい流れがないから卵が流されないし、ただの水たまりと違って干からびる心配もない。おまけに隠れる草場も餌もたっぷりあって……ほら、ああいう風に、鬱陶しいほど増えちゃったりして」
彼は顎で前を指した。見れば、ウマが煩わしそうに耳をパタパタと動かして、顔に群がる無数の小さな羽虫を払いのけていた。
「なるほど……だから、シカやウサギたちを見かけなくなったんですね」
「そうそうそう。獣たちにとってはぬかるんで歩きにくい上に、血を吸う虫たちが容赦なくたかってくるようなところだからね」
私は小さく息を吐き、湿原へと目を移した。退屈だった景色が、彼の言葉一つで、生存競争が渦巻くミクロな世界へと姿を変えて見えた。
知識がある人から見れば、世界はこんなにも違って見えるのか。感銘を受けたついでに、私は気になっていた言い回しについて、切り込んでみることにした。
「極楽っていうのは、要するに『天国』という意味ですよね?」
「そうだね」
「なんでそんな言葉を使ったんですか?」
「え?」
アシハラは一瞬だけ私と目を合わせ、再び前を向いた。手綱を握ったまま、彼は親指だけを擦りつけるように動かして、考え込むしぐさを見せた。
「まぁ、その……」
「はい」
私は返事をしながら、握りこぶしを作った両手を膝の上に乗せて、次の言葉を待ちわびた。
「別に深い意味はない、っていうのが本当のところ。でも、しいて理由をつけるとするなら……これはあくまで日本での話なんだけど、こういう水はけの悪い場所って、歴史背景的にお墓として使われてきたことが多くって。それで、たぶん頭の中で勝手に紐づけて、そんな言葉が出ちゃったんじゃないかな?」
知識欲の満たされた私は握っていた拳の力と表情を緩めて、アシハラの横顔を見た。彼は前に向けていた視線を必要以上に動かすことはしなかった。なんだかおかしくなってしまった私は、ふっと息を抜いて笑った。
「満足できましたか? 捜査官殿」
「からかわないでくださいよ」
「からかってないですよ。イシュタル殿も変わったなぁ、って思ってたけど、やっぱりあんまり変わってないね」
「具体的にお願いします。どこが変わって、どこが変わっていないんですか?」
「変わったのは、表情。よく笑うようになったから。変わってないのは中身。一生知りたがりというか」
反論できなかった。アシハラにつられて上がっていく自分の口角が急に恥ずかしくなった私は、背もたれに深く身を預けて、天を仰いだ。太陽がちょうど真上に昇っていることに気づき、腕を顔の前に持ってくる。
「……ぼちぼち、時間ですね。キャンプができそうな場所を探しましょう」
「あいよ」
静寂を守る湿原に、アシハラの短い返事だけが残る。手際の良い手綱さばきを受けたウマが、緩やかに速度を落としていく。
単調だったはずの湿原の風は、少しだけ冷たさを増していた。




