123 ハングオーバー
カンカンと小気味のいい槌音が響けば、それが朝の知らせとなる。旅の疲れか、それともドッジボールの気疲れか。いずれにせよ、この日の目覚めはゆっくりとしたものになった。
「キラ? 窓を閉めてくれる?」
宿もエハドも素晴らしいところだが、油と酸の混じった鋭い鉄のニオイは、あのニオイに似すぎている。私は毛布を顔まで被り、キラに頼み込んだ。
「わかった!」
一晩では分解しきれなかったアルコール臭が布団の中に充満する。不快ではあったが、そのままでいた方がマシだった。軽い衝撃音が室内に響いたのを合図に、私は毛布をめくり上げた。
「ありがとう」
「ううん」
セットされていない髪こそボサボサだったものの、窓辺に立つキラは今日も美しかった。無垢な笑顔を向けられると、こちらまで笑顔になってしまう。目が合っただけなのに、彼女は条件反射のように駆け出して、私のベッドへ飛び込んできた。
「寝坊だな?」
「たまには許してよ」
手櫛で髪をとかしてやりながら、部屋の様子を確認する。こじんまりとした三人部屋には、私たち以外に誰もいなかった。
「ソフィーさんは、どうしたの?」
「なんか、杖を取ってくるって、出かけていった」
「杖?」
静かな音を立ててドアが開かれると、目を見張るほど美しい長身の女性が部屋へと入ってきた。噂をすれば、ソフィーさんだった。表情を凛とさせたまま近づいてきた彼女は、手にしていた大きな杖を差し出してきた。
「これでいいかしら?」
キラの背丈より少し大きい、シンプルな木製の長杖。見覚えのあるその形状を目にした私は、キラへと視線を移した。
「……お願いしたの?」
「違う! 何も持ってないと、ちょっと変な感じかも、って言っただけだ!」
満足げに微笑むソフィーさんと、おねだりが苦手なキラ。何があったのか、大体わかった。
それにしても、せっかくこういう世界に来ているのだから、もう少しやり方というものがあったのではないだろうか。私はソフィーさんに個人的な見解を伝えることにした。
「そういうのって、お店とかで買った方が、雰囲気が出るのでは?」
毒でも含んだか。そう思わせるほど、彼女はその美しい顔を凍らせて、握りしめた杖へと視線を落とした。やがて顔を上げた彼女は、にっこりと笑って口を動かした。
「……戻してくるわ」
「うぇえ!? そんなぁ!?」
キラは失望の悲鳴を上げたが、すぐに元気を取り戻した。この日は三人で、エハドのマーケットを楽しむことにしたからだ。
外出前には当然、男子組が合流して全員で朝食を摂る。場所はいつも通り、宿の隣に併設された静けさが売りの酒場だ。今日は朝から、たくさんの肉料理が用意されていた。
「食べないのか、タル?」
大賢者と競争するように骨付き肉にかぶりついていたキラが、わざわざその手を止めてまで私のことを心配してくれた。
「うん……」
ついつい、腹をさする。八割方が茶色い食卓。まだアルコールが残っている私の胃袋には、どれもこれも危険な味がしそうだった。
視線を向けると、大賢者の隣に収まったソフィーさんが、涼しい顔をしてフルーティーな香りを放つ紅茶を啜っていた。せめて目だけでも養生をしようと、私は彼女を食い入るように見つめた。
「マーケットに行くんだろう? なんか入れとかねぇと、へばるぞ?」
昨晩は誰よりも酒を飲んでいた大賢者は、今朝は誰よりも肉を食らっていた。彼とは年も近いのに、どうしてこうも体の構造が違うのかと、改めて不条理というものを感じる。
「まぁ、そうなんですけど……」
「スープだけでも、飲んでみます?」
アシハラが目の前に置いてくれたのは、淡いオレンジ色をしたポタージュスープだった。それと同時に、膝元にふわりとした感触が当たる。
何事だろうと下を向くと、燃えるような赤毛をした犬と目が合った。雲のようにふわふわで、豪華な毛並みを持つサラマンダー君だ。濃淡のオレンジ色で上下を挟まれた私は表情を緩め、彼の頭をそっと撫でた。
「ピ?」
木さじを握る黒いローブの袖が隣から伸びてきた。ピィちゃんもまた、私の身を案じてくれていた。
「ありがとう」
差し出されたスプーンを受け取り、お礼を言う。全員への感謝のつもりだった。
食卓に向き直り、ひとさじのスープを喉の奥へと滑らせる。豊かなカボチャの味わいが優しく口の中に広がり、じんわりとした温かさが胃に染み渡っていく。ようやく今日という一日を始める気力が湧いてきた。
「フルーツも、二日酔いにはいいらしいですよぉ?」
アシハラが続けざまに提供してくれたカットオレンジが決め手となった。ガツンとした酸味と甘みが迸る果実は、口にしただけで何もかもをリセットしてくれた。
「よし!」
最後の骨付き肉を平らげた大賢者が、背もたれに深くかけ直した。
「お前たちが出かけている間、俺たちは向かいの鍛冶屋に苦情を入れてくるとしよう。朝っぱらから、うるさくって敵わんからな」
額面通りに言葉を受け取れば、自分勝手な主張に他ならない。しかしこの男の場合、そんなつまらない損得勘定だけでは絶対に動かない。とどのつまり、彼は私のために動いてくれると宣言していた。
「……騒ぎだけは、起こさないでくださいね?」
私は深く息をついてから、感謝の意を伝えた。
「当たり前だろ?」
我が君はどこか楽しげに、鼻を鳴らして笑った。不安を拭いきれなかった私は、もっと信頼できる男の方へ顔を向けた。キラとじゃれ合いをしている最中だったアシハラは、こちらの視線に気づくと、重々承知といった面持ちで首を縦に振ってくれた。




