119 看板娘のバーディちゃん
波打つ緑色のマットが柔らかく足元を包み込む。エントランスは木の温もりに溢れる空間だったが、そう広くはない。隣の大きな建物と繋がっているのか、背後にドアが設置されたカウンターでは、一輪の黄色い花が植えられた鉢植えがにっこりとこちらを向き、奥には肉付きの良い女性が立っていた。
「ケブラ様のお連れの方っスね? 階段を上がって、左側が女子部屋っス」
肌の露出が多いエプロン姿と特徴的な語尾に、私は気圧されながらも言葉を返した。
「じょ、女子?」
学生時代を彷彿とさせる単語、そして相変わらず『デミナス・ケブラ』を名乗っている大賢者。さらには若い女性店主による体育会系な口調と、それに見合わぬ豊満な体つき。扉をくぐっただけで、これだけの情報が詰まっているのが『オーフ』という宿屋だった。
「あいにく、田舎なもんで。大部屋が用意できなかったっス。スイマセン」
私の困惑を苦情と受け取ったのか、女性店主は申し訳なさそうに目を細めると、ぺこりと頭を下げてきた。
「いえ。それは全然、構わないんですけど……」
一体、どこから声をかけてきたというのだ、あの男は。顔を上げた店主を正面に据えたまま、私は横目で階段を捉えた。
「ケブラはどこに?」
「二階の奥の部屋っスね。あんまり旅人も来ないもんで、ありがたいことに、それだけでうちはもう満室っス」
店主は綺麗に揃った白い歯を見せながら、親指を立てて上の階を指した。私は愛想笑いを返し、背後でずっと物も言わずに見守ってくれていたソフィーさんと目を合わせてから階段を上がった。
「バーディちゃんだって!」
『女子部屋』に入るなり、キラが顔を輝かせながらその名前を告げてきた。セクシーな女性が大好きなキラのことだ。その真理には、容易く到達できてしまう。
ため息混じりの笑いが出てしまった。ランタンが置かれただけの小さな円卓を通り抜け、清潔なシーツがピンと張られたベッドにカバンを下ろす。開け放たれた窓から聞こえてくる町の喧騒を背後に、マットレスに深く腰掛けた私は、後をついてきていたキラへと顔を向けた。
「それがあの店員さんの名前?」
彼女は眩しく笑い、二回も三回も頷いて見せた。
「『看板娘のバーディちゃんっス。勘弁してくれっス。これでもれっきとした乙女っス』!! おっぱい、触らしてくれなかった……」
嬉々として店主の口調を真似たと思ったら、ナンパに失敗した酔っ払い中年のような言葉を放ったキラは、力なく隣のベッドに倒れ込んだ。
その様子を笑いながら見ていたのはソフィーさんだった。出入り口に一番近いベッドの脇。彼女の立ち位置を見て、私は大事なことを思い出した。
「……あの、ソフィーさん。ベッドを交換してもらってもいいですか?」
「いいけど、どうして?」
「万が一を考えて、です」
今日の部屋には大賢者もアシハラもいない。この状況下で不測の事態が起こった場合、私しか対処に慣れた人間がいない。であれば、いち早く変化を察知できる場所にいたい。今回は出入り口に近いベッド。そこが重要な場所にあたる。
私に高い戦闘技術はない。暴漢が来たら二人には窓から逃げてもらうとして、火災が起きた場合は避難経路の確保が大事になってくる。そういったことをきっちりと頭に叩き込んでおくくらいしか出来ることはないが、それでも何の対策もしないよりは生存率が大きく変わる。
これまで彼らが当たり前のようにやっていてくれたことを私がやるだけ。それだけなのだが、正直なところ、私の安眠の確保の面で言うと、部屋の分割はありがたくないものだった。
「よくわからないけど、大変なのね?」
ソフィーさんからふんわりとした労いを受け、なぜか気恥ずかしくなった私は視線を外して笑った。そこから流れるようにベッドの交換を済ます。
ようやくベッドを確保して、地図でも広げようかとカバンに手を伸ばすと、キラがぽつりと呟いた。
「明日は、どうすんだろ?」
部屋が違うとそういった話し合いもスムーズにできない。とは言え、じきに食事の時間になる。そう考えていると、離れた部屋の扉が開く音が耳に入った。わずかな衣擦れの音が近づいてくる。独特の圧力を持った大岩のような存在が、ドアの向こう側でその動きを止めたのが分かった。アシハラだ。
コンコン、と扉が遠慮がちに鳴らされた。
「今、よろしいですかぁ?」
「はい、どうぞ?」
「隣の酒場に集合です。食事はそこでとのことで、よろしくお願いします」
「わかりました」
配慮の塊の中年侍は、こちらが許可を出しても部屋には入らず、伝言だけを残していった。
「メシだぁ!!」
イノシシのような勢いで部屋を飛び出したキラが、階段を軋ませるアシハラの背中にぶつかるまでが、見ずとも分かってしまった。
溜め息をつきながら立ち上がると、横にはソフィーさんがついていた。彼女を仰いだ私は、ついでに尋ねる。
「ここの名物って何ですか?」
「……行ってみてのお楽しみ、かな?」
設定を忘れているのだろう。頬に指を当ててしばらく考え込んだソフィーさんの返事は、ミステリアスかつ、あっさりとしたものだった。




