118 草原の町エハド
目の前に広がる新しい景色。それを一瞬だけ確認した私は、手の中に広げていた地図へと目を落とし、進むべき方角を指差した。
「あっちですね」
「あいよ」
三日間にわたる森の行軍を終えた馬車は、石畳の街道から踏み固められた畦道の上へ、ゆっくりとその車輪を降ろした。
重々しい車体が少しだけ前に傾く。席がガクンと大きく揺れると、それまで身を乗り出して後輪を見ていたアシハラが前へと向き直って手綱を緩めた。
ウマは嘶くこともなく、しっかりとした歩みを見せた。蹄の音はザクザクとした乾いたものへと変わり、馬車のスピードがみるみる上がっていった。心地よく跳ねる車輪の感触が、座席越しに伝わってきた。
「あとは一本道かな?」
「そう……みたいですね」
最終確認を済ませた私は地図から目を離し、一切のことをアシハラに任せることにした。
視界は良好。青々と染まる天と、風にうねる緑たち。それだけが、どこまでも続いていた。鼻を通った草の香りが、目の裏から頭の後ろまで回り込んで、私を労ってくれたような気さえした。隣にいるキラも両腕を広げて、その身に受ける草原の風を楽しんでいるようだった。
「動物のウンチくせぇな。レオの好きな肉がたくさんありそう」
彼女の敏感な鼻は、何キロも先にあるはずの匂いをすでに嗅ぎつけていた。
キラの嗅覚通り、放し飼いにされた豚や羊たちの先に『エハド』はあった。その規模は思っていたよりも広く、町に近い形態だった。
町の奥にはのどかな田園風景が広がり、点在する家々には明るい色をした藁ぶき屋根と石造りの外壁が取り入れられている。町に入ってよく見てみると、庇や窓、ドアなどの装飾部には曲線が用いられ、区画を結んでいるであろう土の道には緑が添えられていた。
道は東西、そして北に分かれていて、そのうちのどれかが市場に繋がっているのであろう。どこからともなく喧騒が漏れ聞こえてくる。
看板も柔らかなデザインのものが多い。町に入ってすぐ、丸文字で『オーフ』と刻まれた木の板を立札にしている建物が目に入った。使い魔のイブを通じて確認してみると、食事も部屋も共に四つ星の宿であることが判明した。
「あそこが宿みたいです」
「あいよ」
馬車は滑らかに止められ、まもなく騒がしい面々が中から降りてきた。
「チェック!?」
「イーン!!」
到着して早々、謎の掛け声を出し合った大賢者とキラが宿の中へと駆けこんでいった。残された私たちは全員でその背中を眺めてから、それぞれに動き出す。
「さてと……お疲れ様だったねぇ?」
アシハラは馬車を馬留めに収めると、手早くウマを厩舎へと誘導し、そのまま手入れを始めた。
「ピィ!」
気持ちよさそうにブラッシングをかけられている彼女の背中には、ちゃっかりとピィちゃんが乗っていた。
「キュオーン!」
「…………」
私の隣で紫煙を上らせたのは、サラマンダー君から火をもらい受けたソフィーさんだ。細く長く吐き出した煙で輪を描くと、彼女は私の顔を見てニッコリと笑った。
「どうするのがいいと思う?」
「え? えーと……」
彼女はある意味で、大賢者以上にわからない部分がある。主語がない疑問を投げられた私は考えたふりをするくらいしか、他にやりようがなかった。
「もう少し、縮めましょうか?」
その言葉でようやく理解する。彼女は仕様の相談を持ちかけていたのだ。
「難しいところ、ですよね……」
私が口にしたのはうわべではなく、本音だ。そのまま深い思案に入る。
効率だけを考えれば、目的地にすぐさま到着するような仕様に変えてもらうべきなのだろう。大賢者の収納魔法が使えないのはあまりにも痛い。馬車の中が広げられているとはいえ、限界はある。備蓄を含んだ物資の面で考えても、補給なしの旅は一週間がギリギリのところだ。
私にしてみれば、一週間どころか、三日でこの疲労感だ。地図にはまだまだ描かれていない過酷な旅路が待っている。誰がどう考えたって、短縮してもらうのが正解だろう。
「あくまでも、私個人の意見ですけど……このままでもいいかな、とは思っています」
頭ではそうわかっていても、私は不正解の道を選んだ。
森に入った瞬間に肌を突き刺してきた、あの冷気。立ち込める霧によってもたらされた、あの苛立ち。大賢者の破壊行為によってもたらされた、あの怒り。それらをすべて乗り越えた先に待っていたのが、あの草原の匂いだった。
それらに価値なんてものは無い。ただ、その体験というのは確かにそこにあるものだった。馬車を使った本格的な旅というのは、初めてのことだったが、何もかもが手探りで、いくら時間があっても足りやしない。大抵のことが苦労に見合わない。まだ内装は見ていないが、この宿にしたって、イルハレバナに比べればランク落ちだ。
それなのになぜか、この旅路を早く終わらせたいという気持ちには、少しもなれなかった。
「おい、ソフィー!! カネ!!」
宿から戻ってきた大賢者が、乱暴な言い方で妻へと宿泊代を要求した。
ソフィーさんは何も言わず、懐から取り出した金貨の入った袋を彼へと投げつけた。
「おい!! 大事なカネを投げるなよ。まぁ、いいか。部屋は取れた。お前ら、行くぞ!?」
金貨袋を見事にキャッチし、踵を返した大賢者の背中にサラマンダー君がついていく。それに続いて、アシハラとピィちゃんが宿の中へと入っていった。
私はソフィーさんがタバコを吸い終わるまで、その場で待ち続けることにした。
「本当にいいの?」
「ええ。もしあの人に短縮を頼んだなんて知られたら、大目玉くらっちゃいますから。それに……」
言い訳ついでに、彼女への思いも伝えたい。欲張ってはみたものの、さすがにそこまでは格好つけすぎか、とブレーキがかかる。
「それに?」
ソフィーさんの無邪気な微笑みは、心の防波堤を簡単に押し流した。
「せっかくですからね。ソフィーさんが、私たちのためだけに作ってくれたこの世界を、できるだけ楽しみたいじゃないですか」
そう言うと、彼女は少しだけ目を丸くさせ、悪戯っぽく口角を上げた。表情はそのままに、彼女はゆっくりと立ち上がって、顔を近づけてきた。首筋に手を伸ばされ、唇でも重ねられるのかと身構えたが、彼女が口を寄せたのは私の耳元だった。
「……ありがと」
その妖艶な声色に、背筋がゾクゾクと震えた。
「何やってんだ、オラァ!! ダラダラしてねぇで、とっとと入って来い!!」
大賢者の飛ばした怒号は町を飛び越え、世界を切り裂いた。その声には、夜を知らせる鷹たちも怯えて逃げるほどの勢いがあった。




