117 緊急メンテナンス
昼休憩を終え、午後の行程が始まっても霧は視界を阻んでいた。濃霧の森に蹄の音が淡々と刻まれていく。地図に目を落とすと、森を抜けるまであと少しに迫っていた。
「!! ウォーゥウォゥウォゥ……」
それは掛け声というよりは鳴き声に近いものだった。アシハラがこれまでに出したことのない声で低く唸ると、片方の手綱だけを強く引いた。緊急事態だ。私は衝撃で振り落とされないよう、ひじ掛けにしがみついた。
『ウマ』は即座に首をしならせた。主人の指示に従って、大きく横に進路を変える。車輪がガリガリと音を立てて石畳の上を滑ると、馬車は真横を向いて静止した。
眼前に迫っていたのは御者席から見てもさらに高く、太い幹を持った倒木だった。まさに衝突する寸前、そこに生い茂っている苔の匂いが鼻を突く距離で、衝突事故は回避された。
「すまん、大丈夫だったか?」
脇に立てかけてあった愛刀もそのままに、手綱を放したアシハラは即座にウマに駆け寄って、その身を案じ始めた。ウマはアシハラの肩口を甘噛みしながら、短く生えた角を彼に優しく擦りつけていた。
――バコン!!
派手な破砕音を轟かせ、馬車の扉が欠片も残さず霧の中へと消えていった。
「はぁ?」
せっかくアシハラが大事故を未然に食い止めてくれたのに。一体、何を考えているんだ、あの男は。
「ようやく、野盗のお出ましだなぁ!? よーし、俺に殴らせろ!! キラ、お前は危ないから下がっとけ!! やるとしても、倒れたやつを、その辺の棒で突っつくとかにしておけよ!?」
「わかったっ!!」
扉が吹き飛ばされた勢いのままに、馬車から飛び出してきたのは、野盗よりも危ない思想を持った親子だった。大賢者とキラだ。
「ピィ!?」
遅れて姿を現したのはピィちゃんだ。そばにはサラマンダー君の姿もある。それから、一番最後に馬車を降りてきたのは、ソフィーさんだった。
「出してもどうせ倒されるだけだし、この辺にはあまり敵は作ってないわよ?」
「お前……ふざけんなよ。なんだよ、そのヌルい設定は」
お前がふざけるなよ。
ソフィーさんにも言いたいことはあった。しかし、それまでにかいていた冷や汗を怒りのエネルギーへと変換させることに全神経を持って行かれていた私は、大賢者へと詰め寄ることを余儀なくされていた。
「どうしてくれるんですか? 扉、取れちゃいましたけど?」
「何ぃ!? 一体、誰が!? ものは大切に扱わんといかんな」
こういう時、こちらが必死になるほど、この男は言うことを聞かなくなる。私は努めて感情を押し殺して、淡々と要求を突きつけた。
「緊急だと思ったのは私も同じですから、それについては何も言いません。すぐに修理してください。それと、これからは緊急時であっても、馬車のドアを蹴破るのはやめてください」
「……はいはい」
不貞腐れたような適当な返事は、私に残されていたひとかけらの理性を奪った。
「『はい』は一回!!」
「わーかったよ!」
不毛に叫びあった後は、ウマの嘶きだけが霧の森に響いた。
馬車の修理と、道を塞ぐ倒木の排除が手際よく始まった。
大賢者がヘラヘラと笑いながら、腹の立つほどに精密な手つきで蝶番と吹き飛ばした扉を繋ぎ合わせ、一方では、アシハラが愛刀で倒木を細かく切り刻む。散らばった残骸は、ピィちゃんが水の奔流で森の奥へと押し流していった。
男たちの仕事ぶりに挟まれながら、私は転がっていた木片に腰を据えて地図を読み込んでいた。
「もう少しで着きそうか!?」
キラが後ろから抱きつきながら聞いてくる。彼女の体温は冷え切った私の体を温め、張り詰めていたものをゆっくりと解いてくれた。
「一時間くらいで……到着、かな」
「本当か!?」
もっちりとした頬を重ねながら、キラも地図を覗き込んだ。彼女がわかるように、私は現在地を指し示し、目的地までの道をなぞってやった。
この霧でペースは鈍ったが、道のりは着実に埋まっていた。地図で見れば、森は残り一ミリもない。森を抜けてすぐに、木造の人家が立ち並ぶ小さな集落『エハド』が描かれている。
指先でそこをぐるりと囲んでトントンと叩き、キラの顔を見た。よほど感激したのか、彼女は自分の鼻と私の鼻を合わせて喜びを伝えてきた。
「じゃあ、着くまでタルの隣に座る!!」
「飴を忘れないようにね?」
彼女は素早く頷くと、修理されたばかりの馬車の中に駆けこんでいった。昇降口のすぐそばにいたソフィーさんが私に目配せをしてから、彼女の後に続いていった。
「よーし! アシハラ、ケガの確認するから、ちょっと歩かせてみてくれ!」
ここで大賢者が新たな動きを見せた。アシハラとの連携によるウマの診療だった。
アシハラが手綱を優しく引き、ウマを数歩前進させる。大賢者はふざけた態度を一変させ、真面目にウマの歩様を凝視した。
「……特に歪みはねぇな。骨も筋肉も大丈夫そうに見えるが」
大賢者が顎に手を当てながら言葉尻を濁す。手綱を引いていたアシハラも、腑に落ちないといった様子でウマの顔を覗き込んだ。
「ちょっと重心が、重いと言いますか、足元がフラついているような気はしますねぇ……」
詳細はさっぱりわからないが、両者がウマの動きに違和感を覚えているのだけは間違いがなかった。大賢者はウマの前に回り込むと、ツノの付け根にそっと手を当て、別の角度からの観察を始めた。
「まあ、よくあることか……タル、ちょっとこっちに来てくれるか?」
私はすっくと立ち上がり、静かに、なるべく急いで彼らへと合流した。傍ではピィちゃんとサラマンダー君が神妙な面持ちで、私たちを見守っていた。
「何ですか?」
「イブちゃんで『視』てやってくれ」
そういうことか。
仰せの通りに、私は肩の上に乗せたままの使い魔と視界のリンクを試みた。
「何色に見える?」
「白ですね……チカチカと、点滅しているような感じの」
瞼の裏に映ったウマの全身が、煙のようなオーラを帯びている。白色の光は彼女の心音に合わせているのか、早い間隔で明滅していた。
「他に異常はないか? 脚が赤いとか」
「『視』たところ、それだけですね。異常は確認できません」
沈黙が霧の中に流れる。やがて大賢者は鼻で笑い、アシハラは大きくため息をついた。
「えー、診断結果は『心の病』です」
「そんなのあるんですか!? 馬に!?」
私の疑問に答えたのは、アシハラの方だった。
「馬って、繊細だからね。『ウマ』も、やっぱり馬なんだね。だけどよくあるのよ、こういうことって」
種族と名前の交錯が、あまりにもややこしい。
パッと目を開けた私はウマへと手を伸ばした。美しい芦色の前髪をかきあげて、つぶさにその表情を確認してみる。言われてみれば、聡明な瞳が、心なしか潤んでいるようにも見えた。
ウマは耳をせわしなく後ろに寝かせ、アシハラの袴の袖をすがるように甘噛みした。アシハラは苦笑しながら、彼女の首筋をポンポンと軽く叩いてなだめ始めた。
「よーしよしよし、怖かったな。もう大丈夫だ。よく避けてくれた、ありがとうありがとう」
優しく声をかけるアシハラに、ウマはその顔を何度も何度もすり寄せていた。
再びイブを通じて『視』てみると、彼女の明滅はゆっくりとしたものになっていた。その身体が白一色に落ち着くまで、予定になかった休息は続いた。




