116 エハドへの旅路、三日目の霧
森林の中心部に差し掛かると、おどろおどろしかった光景が、嘘のように美しいものへと変わった。
空を覆い尽くしていた枝葉の雲が開き、そこには一日ぶりの太陽の姿があった。
地図を握る手の強さはそのままに、天へと顔を向けた私は大きく息をついた。燦々と照らす日の光が、鼻の先にまで力を与えてくれる。土や菌糸、そして森の瑞々しさまでをも風が伝えてくれた。
何も問題はない。時間だけで考えれば、余りそうなくらいだ。このまま行けば、明日の昼にでも『エハド』に到着できそうだ。
理想的なロードマップを思い浮かべながら、私は静かに前を向いた。
「ピ?」
横にいたピィちゃんが、気遣わしげに声をかけてきた。その繊細な配慮に、私は笑顔で応える。
「大丈夫。ピィちゃんは楽しい?」
「ピィ!」
たっぷりと水分を含んだ湿潤な気候と相性がいいのか、この日の彼は、朝から私の隣から離れようともしなかった。すっぽりとフードに包まれた頭をキョロキョロと動かしながら森林浴を満喫しており、その姿は見ているだけで癒やされるものだった。それだけでなく、彼は頼れる仲間として大いに活躍してくれた。
「あらら……」
軽い驚きを口にしたアシハラが手綱をじんわりと引く。ウマが荒い鼻息を漏らしながら速度を落とし、やがて完全にその足を止めた。
「どうにも、今日は多いねぇ」
手綱をしっかりと握りながらアシハラがため息をつく。見れば、石畳の道の端がめくれ上がって溝になっていた。それだけなら、しょっちゅうあることだ。問題は、溝に根元からへし折れた太く長い落枝が突き刺さり、街道全体を塞ぐように横たわっていることだった。
「ちょっと大物ですけど、お願いできますか?」
こちらへと向き直したアシハラは、物腰低く頼み込んだ。その相手はもちろん、私ではなかった。
「ピィ!」
小さな胸を大きく張ったピィちゃんは、その場から動くことなく指先から鋭い水流を発射させた。落枝はかなり大ぶりなものだったが、密度の高い激流は難なくそれを粉砕すると、轟音を響かせながら、すべてを森の中へと押し流した。
「すごい!」
それ以外の言葉は見当たらなかった。威力、精度、練度。魔法だけを分析しても、褒めるところしかない。
「本当に助かってる。ありがとう、ピィちゃん」
「ピィ!」
彼には何度お礼を言っても足りなかった。おかげで、私がいちいち御者席から降りるという手間も省けていた。
「ありがとうございます、ピィちゃん殿。それじゃあ、出発しましょうか?」
「ピピィ!」
アシハラがピンと張っていた手綱を緩めかけた、その時だった。
「ゼノはいいよなぁ……すぐ褒められて……」
背後から漏れるような声が忍び寄った。振り向くと馬車の小窓の中には、恨めしそうにこちらを見つめる瑠璃色の瞳が浮かんでいた。今朝、私に怒られたばかりのキラだ。
「……おいで?」
細身の彼女なら御者席に座らせても、まだ余裕がある。発進前に仲直りをしておこうと、私は彼女を呼び寄せた。
「ん……」
返事か唸り声か、キラは曖昧に喉を鳴らして窓から這い出てきた。そのまま席まで滑り込んできた彼女は、ピィちゃんと私の間に陣取ると、遠慮がちに肩を小さくさせた。
もう怒っていないことを伝えようと、私はキラの肩に手を回した。すると、彼女は体を揺らし、すすり泣き始めた。
「ご、ごめぇん、タルぅ。きょ、今日は、ね、寝る前に、ちゃんと準備するからぁ!!」
いつもの通りだが、きっかけは些細なことだった。集団での旅というのは一人の遅れが全体の日程を狂わせ、水や食糧の枯渇に繋がり、それが命取りになることもある。
それは間違いではないのだが、今の状況であれば、そこまで気にする必要もない。これからの長い旅路と彼女の人生を考えすぎてしまった私が、厳しく躾けすぎたのだ。
「わかったから……もう大丈夫。私も、すぐに怒らないようにする。ね? だから、泣かないで?」
声が震えた。私も一緒になって泣いていた。キラは大賢者の子だが、そんなことは関係ない。私にとって、我が子にも等しい存在である彼女が一生懸命考えて、反省の弁を述べてくれただけで心がいっぱいになった。
「タルぅ!」
「キラ……」
それ以上の言葉はいらなかった。私たちは互いに確かめるように名前を呼び合って、長い抱擁を交わした。
「……美しいねぇ?」
「ピィ?」
アシハラとピィちゃんの短いやり取りを合図に、馬車は動き出した。熱く約束を誓い合った私たちだったが、言わずもがな、翌朝には双方から反故にした。
三日目ともなると余裕、とは言えなかった。この日は朝から濃い霧が立ち込めていた。それでも、馬車はゆっくりと前進していた。
「焦りは禁物ですよ?」
アシハラが落ち着いた声で呟く。
思い描いた通りに進まず、イライラとした気持ちが態度に出ていたのだろうか。それとも、今朝もあったキラとのぶつかり合いが、まだ尾を引いていたか。ともあれ、余計な気を遣わせてしまったことには変わりない。私は頭を下げることにした。
「すみません」
「まぁ、昨日は暖かかったからねぇ。自然の摂理ってやつだね。まったりと参りましょう」
そう言いながらも、アシハラの顔つきは有事のときにも近い、研ぎ澄まされたものがあった。姿勢は正しく、視線はまっすぐ。手綱を握る手はいつもよりやや低くとられ、後方で針でも落ちようものならば、迷わず刀を抜いて飛び出していきそうなほど、ギラついたオーラを滲ませている。
「……お話を伺っても、よろしいですか?」
アシハラの雰囲気に圧倒されまいと、ついつい前職の喋り方をしてしまう。
「ん、ん、ん? な、なに?」
私の口調に大いに焦りながらも、アシハラは見事な手綱さばきで馬のスピードをさらに緩めた。
「すみません、突然。ただ少し……二、三、お尋ねしたいことがありまして」
どうしても硬い口調が抜けきらない。霧は一層深まり、ついにウマのたてがみすら霞んで見えるほどになっていた。目で情報を得ることが多い私には、それだけで酷だった。
「な、な、なんですか局員さん? 殺人ですか? 私は、何も、関与していませんよ?」
ふざけているのか、怯えているのか。どちらにせよ、アシハラという男には独特の、緊張をほどく力があった。
「あはは、そうじゃなくて。今さらなんですけど、アシハラさんって、何で馬車の運転ができるどころか、上手なんですか?」
「上手い……かなぁ?」
とぼけたような声で、アシハラは霧の彼方を見つめる。何か訳ありだと、すぐさま気づく。しかし私はいつもの調子で、少し語気を強くさせて追及した。
「そもそも、手綱を握る技術があること自体、異常だと思うんですけど?」
「異常? 言うねぇ……」
彼は、その垂れた目尻をぐっと下げて微笑んだ。
「何か、ご経験があるんですね?」
「むかーし、ね? 実家が山の中だったじゃない?」
「ええ」
彼の生家で年末年始を過ごしたのは、記憶に新しい。キタカントーでも、言葉にしきれない出来事がたくさんあった。
「あの辺はね、谷の方に行くと温泉街になってるの。そこには娼館もあって、前ちょっと話したかもしれないけど、最初の奉公先がそこで。それで、その店では馬車も扱ってたんだよねぇ……」
「そこで扱いを習ったんですか?」
「習ったというか、まぁ『お前、やれ』って感じだよね。いきなり手綱握らされて、右も左もわからないから、困ったもんだよ、その時は」
笑って話すが、過酷な環境だったに違いない。私の目は、彼の眉根が微かに動いたのを見逃さなかった。
「でも、そういうお店が馬車を持っているなんて、珍しいですね? 何の目的があったんですか?」
「悪い商売だよ。ただの観光馬車のフリして、酔っぱらったお客さんを見つけたら乗っけて、『あれぇ? たまたま走ってたら、こんなお店の前に着いちゃいましたけど、どうしますぅ?』みたいな」
いくらなんでも、あからさますぎる。一昔前のそのやり口に、思わず私も笑ってしまった。
「そうだったんですね。これで、納得できました」
「そう? まぁ、おかげさまで、こうやって皆さんのお役に立てて、あの経験も無駄じゃなかったんだなぁって、しみじみ思うよ……」
霧は深く、少しもその気配を緩めようとはしなかった。しかし、馬車はゆったりと、穏やかに前へ進み続けた。




