115 充実の旅人
力強く吐き出された『ウマ』の鼻息は白く立ち上り、一瞬にして森の静寂に溶け込んでいった。止まったはずの蹄の音が鼓膜の中に残り、車輪の軋む音が実際よりも小さく聞こえた。
「お疲れさまでした」
「ありがとうございました」
手綱を握っていたアシハラが先に地上へ降りると、御者席が大きく傾く。彼の隣で半日、地図とのにらめっこに奮闘していた私は、バランスを取りながら手早く荷物をまとめた。
ブランケットと飴のおかげで、なんとか初日の行程を乗り切れた。だが、いざ地に足をつけてみると、軽い頭痛と、地面が動いているかのような奇妙な感覚に見舞われる。
「大丈夫?」
「ええ、おかげさまで」
大きく伸びをして、とびきり濃厚な空気を取り込む。アシハラの手綱さばきは完璧で、馬車では一切の揺れも起こっていなかった。この疲労感については、森林中毒とでも名付けようか。袖をまくり上げて、手首に巻かれた文字盤へと視線を滑らせる。
時刻は十八時。日の光を拒み続ける森の夕方は、街よりもずっと早く、そして深く訪れていた。馬車に吊るされたランタンの光だけが、この時間という存在を淡く浮かび上がらせている。
「よっしゃ、キャンプだ!! ウマぁ!! 今、水を飲ませてやるからな!?」
手には大鍋、首には岩塩のネックレス。午後の時間を馬車で過ごしていたキラが、勢いよく中から飛び出てきた。それに次いで、薪を背負ったピイちゃんとサラマンダー君までが姿を現す。
「ピィッ!」
「キュオーン!」
ピィちゃんとサラマンダー君の連携で、あっという間に焚き火が起こる。私もアシハラも、暖を求めてそこへ吸い寄せられた。乾いた音がパチパチと弾ける。
「ありがたいねぇ?」
「本当。そうですね」
元気な子供たちをよそに、私たちは焚き火に向かって手を当て、腹を当て、背中を当て。冷え切った肌がピリつくまで、十分に温め続けた。
「ゼノ、水をくれ!!」
「ピィ!」
傍らではキラが激しく指示を飛ばす。彼女の構える大鍋に向かって、ピィちゃんが指先から勢いよく水を放射する。鍋にたまった水は、キラの手によってバシャバシャとこぼされながら火にかけられた。
「お疲れさん」
遅れてやってきた大賢者は、この環境下でも依然として上半身裸のままだった。果たして、この男は一体どこまでその格好を貫き通せるのだろうか。
「寒くないんですか?」
「おう、冷えるなぁ」
適当な生返事を残し、大賢者は手にしていたバケツをピィちゃんの前に置いた。バケツが水で満たされると、彼はその中に手を入れて温度を確かめ始めた。
「ダメだ、つめてぇ。キラ?」
「お湯なら、今、沸かしてるぞ!?」
「でかした」
彼らが用意しているのは『ウマ』のための飲料水だった。冷えすぎた水は体に障る。昼のキャンプで大賢者から得た知識を、キラは楽しみながら実践していた。
「塩、舐めさせて来い」
「あ、そっか!」
キラは胸元にぶら下がるドデカイ存在を思い出したかのように見ると、ウマの元へと駆けだした。成長する娘の後ろ姿に目を細めた大賢者は正面に向き直ると、鼻で笑いながら火に近すぎる鍋の位置を調整した。次に彼はポケットの中をまさぐり始める。
「……やべぇ。タバコ忘れちった」
振り向きざまにタバコの箱が飛んでくる。
「サンキュー」
大賢者はこれを見事にキャッチ。箱が飛んできた方向に目をやると、馬車の乗降口にはソフィーさんが腰かけていた。
「子どもばっかり使ってないで、自分も動けば?」
「へっ。俺の作ったメシとか、食いたいのか? お前は?」
個人的には怖いもの見たさはあるが、そういうことではない。これがこの夫婦のスタンダードなコミュニケーションなのである。
「メシと言えば、ウマのメシも忘れてたなぁ」
仮眠の影響なのだろうか、彼にしては忘れ物が多い。戒めるように頭をかきながら、大賢者は馬車へと歩を進めた。しかし、昇降口はソフィーさんが塞いでいた。
「…………」
「…………」
お互いのこととなると、途端に譲り合いの精神を忘れてしまう両者が睨み合う。流れたのは、緊迫と沈黙だけだった。
「どけぇ!」
こういう時、痺れを切らすのは決まって大賢者の方だ。長身のソフィーさんを軽々と抱き上げた彼は、今日もお得意の力技で己の道を切り拓いた。
「ちょ、ちょっと!?」
横抱きにされたソフィーさんは、両足をバタつかせて抵抗を見せたものの力及ばず。徐々にその顔を赤らめていった。
暴れる彼女がケガをしないよう、大賢者はゆっくりと地上に下ろしてから、その口を開いた。
「……今まで会ってきた、どんな野生動物よりも力が強ぇ。やっぱり、いい女だな?」
「るっさい!」
森の静寂に、大胸筋の打たれる音が高らかにこだました。
寸胴鍋にたっぷり入っていたパスタ入りスープがなくなると、残された仕事は寝ることだけになった。
「あとはお願いします」
「おう」
「お先に失礼します」
「任せろって」
私とアシハラ、それぞれに応答してみせた大賢者に背中を預け、いざ安全地帯へと逃げ込む。私の歩幅には少し高い昇降口をよじ登れば、そこには魔法の馬車の世界が広がっていた。
正面に待ち構えるのはボックス席。テーブルの上はペンやインク、袋から出た飴などで派手に散らかっている。いつもであれば戻ってでもキラを叱り飛ばすところだが、今の私にはそんな気力すら残っていなかった。
「シャワー、先に浴びていいですよ?」
「え? あぁ、ありがとうございます」
五分で止まる欠点はあるが、シャワールームだって完備されている。
「でも、いいんですか?」
そんな必要はないのに、一応断りを入れてしまうのが、私という生き物の習性でもあった。
「うん。朝ご飯の仕込み、あるから」
御者として手綱を握り続け、三食きっちりと作り、おそらく私がシャワーを浴び終えた頃には、目の前のテーブルも綺麗に片付けられていることだろう。
アシハラという男は、やはり鉄人。ただ者ではないのである。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
「あいよ」
どうにかならんのか、私の体力は。
貴重なシャワータイムは、少しだけ感傷的な気分になった。
睡眠は三段ベッド。キラは一番上を使いたがったが、寝相が悪いため危険という理由で、一番下の段でサラマンダー君と寝床を共有している。彼女が所望した最上段は私のスペースになっている。すぐにでも泥のように眠りたいところだが、その前にカバンから地図を取り出し、本日の進捗を確認する。
丸まった羊皮紙を広げると、朝には何もなかった空白に、森やその先の風景が鮮明に浮かび上がっていた。東西に広がるひょうたん型の森。そのくびれ部分に沿うように街道が伸びている。ざらついた羊皮紙に指を当て、今日の道のりをなぞる。
出発地点は港町イルハレバナ。そこから東に続く坂道は、いきなりの難所だった。そこを上りきって、今度は南の森林地帯に入った。午前中はキラの乱入があって、乗り物酔いにも苦しめられた。イブを出し続けることにも、ようやく慣れてきた。
色々あったが、移動距離は五十キロほどだろうか。通ってきた道の状況を顧みれば、上出来と言って差し支えない。ウマもよく頑張ってくれた。
さらに指を滑らせ、森を抜けた先にある小さな集落の表記で指を止めた。
【エハド】
ようやく捉えることのできた目的地。それを見て笑みを浮かべた私は地図を丸め込んだ。あとは横になって、全身から力を抜けば、そこに待っているのは透き通った睡眠だけだった。




