114 見えぬ行き先、見えぬ信頼
重なり合ったブナの巨木が日差しを拒絶する。肌を突き刺したのは、イルハレバナの穏やかな気候とは明らかに違う、鋭い自然の冷気だった。
身が震え、地図を握る手にも力が入る。手綱を握るアシハラは頼もしく、いつものように美しい姿勢をキープしていた。
「大丈夫? 寒くない?」
「そうですね……」
強がってみせたものの、馬車を牽引する『ウマ』の鼻息は白んでいた。魔法が使えない人間は、かくも脆くなるのか。私はたまらず、振り返った。
小窓から伸びていたのは、白く細い手だった。キラの手だ。彼女が「早く受け取れ」と、激しく上下に揺れ動かしていたのは、温かなブランケットだった。私はありがたくそれを受け取りながらも、不思議に思って尋ねた。
「どうしてわかったの?」
「レオが持ってけって」
何もかもお見通しか。ならばなぜ、自分で渡しに来なかったのか。答えはわかりきっていたが、念のために確認する。
「あの人は?」
「サラマンダー君と寝てる」
やはり、そういうことか。つまり大賢者は、夜間の見張りは俺に任せろと言っている。
「ありがとう」
立派にサポートをこなした、窓の向こうにいる天使の頬をひと撫でしようと手を伸ばす。すると、いつもとは違う、ザラザラとした素朴な感触が手の中に広がった。
「……これは?」
キラが私の手に押し付けてきたのは、小さな麻の袋だった。
「飴! これもレオが渡せって!」
あの人が言うのなら、そのうち必要になるのだろう。私は受け取った袋をカバンへと忍ばせた。
「タル!?」
「どうしたの?」
再び背後に目をやると、キラが何かを訴えるように、じっとこちらを見つめていた。まんまと心を奪われた私はそっと手を伸ばし、改めてその頬を撫でて彼女に感謝を伝えた。
「ムガ!?」
「ん~?」
視線を前に向けたまま、アシハラは牛のような声で応える。
「元気か!? そっち行ってやろうか!?」
「あんまり……この森は、吉良殿には合わないかも」
足を踏み入れてまだ間もないが、早くも過酷になってきた外の環境を、彼らしく遠回しに伝えた。
「何だとぉ!?」
期待していた言葉が返ってこなかったのだろう。怒りを露わにしたキラは小窓から身を乗り出し、危なっかしい手つきで御者席まで這い出てきた。そのまま彼女は、私とアシハラの間に滑り込んできた。
「……さむい」
「だから言ったじゃない」
アシハラの溜め息も虚しく。私と同じブランケットにくるまった彼女は、流れるように地図を覗き込んだ。
「まだ着かないのか?」
「そりゃあ、入ったばかりだからね、この森」
すべてが予想通りなのに、どうしてこの二人の会話は、こんなにも面白く感じるのだろう。顔に入っていた力を緩めながら、私は地図へと目を落とした。
片目を閉じ、肩に乗せたイブを通して『視』ると、地図には白い点が浮かび上がっている。それが私だ。そこを中心に、周囲は広大な森林地帯が青々と生い茂るのみで、出口らしきものは見当たらない。
詳細な地形が描かれるのは、私が通った場所を中心に半径百キロ。少なくとも、あと百キロ以上はこの状況が続くということだ。この事実には、大人の私でも少々滅入る。
目的地は、この森の先にある集落『エハド』。
昨晩ソフィーさんが言っていた通り、三日で森を抜けられるのなら、今夜にでもその場所が明らかになるはずだ。
「後三時間で休憩だから、それまで頑張って?」
両脚をぶらつかせ、退屈を訴えてきたキラの目の前に左腕を差し出す。
「おぉ。綺麗だなぁ……」
文字盤に刻まれているのは、ホワイトゴールドが美しい『はじまりの木』の紋章。彼女は息を呑んで、それを見つめた。この時計は町で購入したものではなく、今朝ソフィーさんから直々に贈られたものだ。疑い始めるとキリがないので、性能は信頼するとして、枝葉を模した短針は現在『九』を指していた。
「三時間か……よぉし、行けぇ!! ウマぁ!!」
キラは拳を大きく前へと突き出し、威勢よく掛け声をかけた。
「いや、行かないよ? 危ないから、路面滑っちゃって。湿気多いから、この森」
そんな彼女には、落ち着いた色合いの袴を着たオジサンが厳しい現実を突きつけた。
結局、ウマは速度を上げることもなく、コツコツと規則正しく蹄の音を積み重ねていった。キラは最初の方こそ、ああだこうだと騒ぎ立てたが、そのうちに単調な揺れとブランケットの温かさに抗えなくなったのだろう。私の肩に頭を預けて、豪快にイビキをかき始めていた。
「イシュタル殿、大丈夫だよ? そんなに警戒しなくても」
「いや、でも、万が一ということもありますし」
「……そうかい?」
私はと言えば、片目を閉じての地図の確認はもちろん、時折森から聞こえてくる小さな物音がどうしても気になり、完全に両眼を閉じてイブを通じた安全確認も行っていた。
耳に入ってきたのは高く鋭い音から、鈍く重い音まで実に様々。だが、それらの正体は野生動物や野盗ではなく、風に揺れる木々や地面に落ちた枝葉の音だった。
目を開ければ静寂の森を縫う街道の姿がそこにはあった。
視界をごちゃまぜにさせながら進む旅路。そんなことを繰り返していると、やがて乗り物酔いに襲われるようになる。症状は比較的軽かったが、ここで役に立ったのが渡された飴だった。ひと口放り込めば、薄荷の清涼感が鼻を抜け、吐き気が和らいでいく。
まさか私がこうなるなんて。
途方もない信頼感を背に、しかし何となく悔しくなった私は――
「あの、アシハラさん?」
「ん~?」
「やっぱり、周囲への警戒は、お願いしてもいいですか?」
「あいよ」
もう一人の信頼感に、一つの仕事を預けることにした。




