113 出立前夜
部屋は四つ星・料理は五つ星。少々料金はかかったが、新しく取り直した宿には、それに見合うだけの価値があった。
窓から下を覗けば、内部を広々としたものに改造された荘厳な馬車と、幻想的な生き物の姿が目に入る。こちらの視線に気づいてか、芦色の毛並みが美しい『ウマ』は、耳だけをピクリと動かして反応してくれた。
潮騒も遠くに、空が徐々に茜色へと染められていく。門からは低い唸り声が鳴り響いた。見ると、男数人が黒鉄の大きな閂を下ろしたところだった。
下に降りて数十歩も歩けばたどり着く、あの門をくぐれば、すぐにでも街道へと出られる。旅立ちを明日に控えた私たちには、これ以上にない場所だ。
「書けた!」
元気な女の子の声が背後から響く。振り返ると、そこにいたのはキラだった。細長い一枚布を手にした彼女は、バタバタとそれをはためかせながら、白い歯を零していた。
「名前が書けたら、しまって?」
「わかった!」
旅に必要な物資の買い出しには、丸一日かかった。この宿に到着してからというもの、もう何十回も彼女は同じようなことをしている。
そもそも下着としてふんどしを締めるのは、彼女とアシハラだけだ。サイズのまったく違うものを混同するはずもなく、名前を書く必要などない。しかし、ああ見えて、キラには読み書きが好きな一面がある。きっと、その作業自体が楽しくて仕方がないのだろう。
「これで最後だ!」
自分のベッドであぐらをかいたキラは、下着を雑に丸めると、今にもはち切れそうになっているカバンの中へと押し込んだ。
「歯ブラシは?」
「まだ!」
全然最後ではなかった。私は脱力した笑いを浮かべながら、彼女のすぐ隣に配置されている自分のベッドへと腰かける。
向かいのベッドでは、ピィちゃんが小さな両手を大の字に広げて天井を仰いでいた。部屋の両脇に全員分のベッドがきっちりと揃えられているが、私たち以外はもぬけの殻。代わりに、ドアの隙間からタバコの匂いがうっすらと運ばれてきている。キラという底抜けに明るい存在こそいるが、おかげで室内は静かなものだった。
「書いた!」
「よくできました。じゃあ、カバンに入れて?」
「わかった!」
奮闘を続けるキラを尻目に、私はベッドサイドにかけていた自分のバッグへと手を伸ばした。中に入っているのは、もちろん地図だ。カサリと音を立てながら古めかしい羊皮紙を広げる。そこには、遥かなる旅路が描かれていた。
一体、どんな町なのだろう。肩に乗せたイブを通じて地図を『視』つめる。最初の目的地『エシュ・ヤハム』の文字は、やはりオレンジ色に輝いていた。
「喜べ、キラ!! 明日の朝は、米食えるようにしてくれたってよ!?」
ドカンと、ドアを壁にぶち当て、豪快に部屋に入ってきたのは大賢者だった。
「ピピピ!?」
その音にはもちろん私も驚いたが、それ以上に驚いたピィちゃんは飛び起きた勢いのままに、ベッドの上で素早く手足を動かし、戦闘態勢に入っていた。
「は、ははは。なんだ、レオか。ビビらすなよ……ビビッてねぇし! ……米!? 本当か!?」
ちゃっかりと私の影に回り込んで自衛をしていたキラは、しどろもどろに強がったあと、歓喜と困惑が入り混じったような声を上げた。
「おう! 今、下でソフィーが言ってたぞ?」
「よっしゃあ!!」
キラはその場で飛び跳ねて、全力で喜びを表した。それを見た大賢者は満足そうに頷く。結局は皆、彼女が可愛くて仕方がないのだ。そんな私も、自分なりの方法で彼女を甘やかす。
「酔い止めの飴と、ブーツ用の消臭オイルは?」
「まだ!」
室内には、彼女の元気な声が響いた。
夕食は、日がとっぷりと暮れてからになった。キラが荷造りにそれだけ時間をかけた、というのも理由の一つだが、その裏でソフィーさんが翌日の朝食プログラムを変えていたという大人の事情も絡んでいた。
食堂と酒場を兼ねる宿の一階には宿泊客だけでなく、先ほど門に閂をかけていた男たちの姿も見えた。どうやら、この界隈での憩いの場としても機能しているようだ。
小窓を背負った吟遊詩人が、今日の町での出来事を歌い上げている。その旋律を背景に、私たちも日常の一部として、この場所の賑やかさを盛り立てていた。
「海苔に納豆に、完璧だと思うわ」
「ありがとう、ソフィー!!」
食事をしながら食事の話をするというのは、我が家では間々ある。六人と一匹で囲む大きな円卓には、様々な料理が並べられていた。
「肉……うめぇな、コレ!」
私の目の前で大賢者が占有しているローストポークもさながら、ピィちゃんの大好物である海鮮も豪華なものだ。真っ赤に茹で上がったロブスターやスライスされたイカの丸焼きは、その見た目から匂いまでが食欲を刺激してくる。
「ピィ!」
「美味しい? よかったら、こっちも食べてみる?」
「ピィ!」
「あいよ」
アシハラが取り分けたのは、キノコとバターが薫る、熱々のパスタ入りグラタンだ。他にも素揚げにされたズッキーニやパプリカ、フレッシュな葉物野菜もあれば、穴あきチーズに、カットされたリンゴも用意され、テーブルの上は実に賑やかなものだった。
「キュオーン!」
「わかったわかった! 食え! どうだ? うまいか?」
キラから薪をもらったサラマンダー君は、返事の代わりに口から火柱を上げた。ヒノキだろうか。シャープで清涼感のある香りが、煙とともに舞い上がった。
「どうしたの、タルちゃん?」
隣のキラ越しに、ソフィーさんが話しかけてくる。
「え? 何か、変でしたか?」
私の中にあったのは、未知の世界での旅を前にした、漠然とした不安だった。家族というのは、言い方を変えれば組織である。こうして、今は楽しく食事をしている以上、必要がないと判断し、隠していたつもりの感情でもある。
「どうせ、聞きたいことでもあるんだろう? 隠すな」
追撃とばかりに大賢者が、文字通り正面から突破してくる。サラマンダー君は私の膝の上に顔を乗せ、キラもこつんと頭を当ててきた。アシハラとピィちゃんは何も言わず、ただ柔らかい表情でこちらを見ていた。
全員でこんなことをされたら、とても敵わない。私は遠慮なく、家族の厚意に甘えることにした。
「大したことじゃないです。エシュ・ヤハムって、どんな町なのかなって。ずっと考えてて……」
本当に大したことじゃないと、我ながらに思ってしまう。ソフィーさんを見ると、目を瞬かせてこちらを見ていた。直後、彼女は何かの許可を得るように大賢者へと視線を向けた。頼られた大賢者は窓の外の景色を退屈そうに眺めるばかりで、一言も発さないどころか、彼女の方を見ようともしなかった。
無言の夫婦会議が終わったのか、私に向き直したソフィーさんは、ゆっくりとその口を動かし始めた。
「……ネタバレになっちゃうけど、いい?」
私は黙って頷く。気付けば大賢者以外の視線は、彼女へと向けられていた。
「夜にしたの」
「夜? どういうことだ?」
短く告げられた情報に食いついたのはキラだった。
「極夜か」
理解できたのは大賢者だけのようだった。彼の言葉でイメージを固めた私は、アシハラとリズムを合わせて感心の頷きを入れた。
「ええ。その方が綺麗だと思って」
「どういうことだ?」
ソフィーさんはニコリと笑いながら、まだ飲み込めていないキラの頬を撫でた。
「朝が来ないの。ずっと星空の下にある、夜の街。それがエシュ・ヤハム」
ようやく納得できたのか、キラは天井を仰いで、丸くさせた口から吐息を漏らした。
「一週間かかるって話でしたけど、途中に他の町なんかはあるんですか?」
私はここぞとばかりに身を乗り出した。ソフィーさんの情報は常に小出し。タイミングを逃せば、永久にそのチャンスはやってこない。
「最初の森を抜ければ、エハドっていう小さな集落があるわ」
初耳の情報がもう出た。私は次いで、深掘りをする。
「そこに行くまでに、どれくらいかかるんですか?」
「そうねぇ……三日もあれば、着くと思うわ」
脳内のロードマップが埋まっていく。靄がかっていた視界が一気に開けたような気がした。
「じゃあ、差し当たっての目標はそこになるね?」
「そうですね」
手綱を握るアシハラとやり取りを交わす。これで私の不安は完全に解消された。
「……どういう、ことなんだ?」
キラの思考だけはまだ滞っていた。




