112 試運転
テラコッタの道を叩く蹄のリズムが心地よく響く。車窓の風景はゆっくりと流れ、青い空に漂う雲は時間を忘れたかのように、ただ静かに浮かんでいた。
車内にあるのは繊細な花束の香りと、どこまでも深い慈愛だけだった。顔を上げてみれば、すぐそこには、すべての罪を赦したもう瞳と柔らかな頬を携えた女神がいる。
美しいくびれを持った黄金色の髪がたゆたう。その姿に見惚れていると、女神は静かに口を開いた。
「もういいのよ。ゆっくりお休みなさい?」
「うん」
代わりに答えたのはキラだった。私の反対側に座っている彼女は、女神の膝元でその全身を弛緩させながら甘えていた。
「はい、失格!」
パチンという、破裂音が鳴り響いた。一体、どこを鳴らしたというのだろうか。見れば、真顔の大賢者がワイルドに茂った腋の下をこちらへと向けていた。
「お前、それがやりたかっただけだろ?」
正面の席に押し込まれ、首まで曲げて座っていた大賢者の正論が、私たちを幻想の世界から呼び戻す。
「ピィ」
「キューン」
彼の両端で、窮屈そうに座っているピィちゃんとサラマンダー君が呆れたような声を出す。その風景は、こちら側の座席と比べると、えらい違いなのではないだろうか。
「悪い?」
悦に浸っていた私を脇に抱えたまま、ごっこ遊びを終えたソフィーさんは、いつもの口調で短く言い放った。
「悪いよ? ダメだ、こんなもん。狭すぎるし、このままじゃ荷物も積めねぇ。おい、アシハラぁ! ウマを止めろ! 試運転終わり!」
前方には文句、後方には指示。大賢者が器用にそれぞれを飛ばすと、じんわりとした減速の後に馬車は止められた。
「それとなぁ、タル……ツッコミはお前の仕事だろうが!! 俺の女使って、気持ち良くなってんじゃねぇ!! このダメ秘書官が!!」
もののついでとばかりに、彼は私の髪を乱暴にかき乱してから路面へと降り立っていった。
一人、また一人と大賢者の後に続き、結局、一番最後に馬車を降りたのは私だった。焼き固められた粘土の地面が、着地の衝撃を吸収する。
まだ試運転なのに、宿場町から続く緩やかな坂は上り切っていた。地図に描かれていた、あの高台にまで来てしまったのだろうか。街道が石畳へと変わる境目のすぐそこにまで迫っている森林からは、冷え込んだ空気が流れてきていた。
「あら? そんなに揺れちゃった?」
近づいてくるなり、私の髪型を見たアシハラが慌てた表情で確認してくる。
「揺れに関しては、全然、大丈夫です。それより、アシハラさんはどうでした? 御者席の方は」
「それならいいんだけど……こっちは文句なしです。快適でしたよ?」
乱れた髪を撫でつけながら、私は馬車へと視線を移した。
御者席は手綱を握るアシハラと、本格的な旅が始まったらナビを務める私が並んで座っても、少し余るほどに広くとられている。馬車本体は全体的に丸みを帯びており、知識のない私からすれば皇族の儀式用とも思えるデザインをしていた。
黒真珠のように光沢を放つ車体。その縁には『はじまりの木』を連想させる、枝葉を模した緻密な金細工がびっしりと施されている。
車輪の骨組みは複雑怪奇に重なり合っている。一言で表せば、黒い縁に覆われた、白いバラの花。
そしてなぜか、重力を無視して地面から浮いた、半月型のキャビン。これによって、一切の揺れが生じていなかった。おかげで、乗り物酔いしやすいキラも快適に過ごせていた。
「『ウマ』も大人しいというか、すごく頭の良い子だしねぇ」
アシハラはキラとピィちゃん、そしてサラマンダー君に囲まれても平然としている、頼もしい旅の仲間へと視線をやった。
馬車を引くのは、短角を持つ牛のような骨格の牝馬だ。彼女には『ウマ』という名が付けられた。どんなお洒落な名前を付けようとも、大賢者とキラがちゃんとした名前で呼ばないという、悲しい事情からそうなってしまった。
「外見はいいとして、中だけ作り変えてくれ。俺がやり方教えてやるから」
「知ってるわよ、そんなの」
馬車の傍らでは大賢者とソフィーさんが、仲良くタバコ休憩……とはいかずに、またしてもやり合っている。
「そうかなぁ? 最悪の場合を考えて、設計できるのか?」
大賢者の声は低く、落ち着いていた。完全に、人を騙すときの声色だ。
「最悪の場合って、なに?」
一方で、ソフィーさんはイラつきながらも、彼にすがるような不安の色をその顔に浮かべていた。
「アシハラなんかは、きっと無茶するぞ?」
槍玉にあげられたアシハラを仰ぐと、彼は照れくささが入り混じったような、曖昧な笑顔をこちらへと向けた。
「三日三晩手綱握って、そこへクマでもやってきて、襲われてみろよ? で、そういうときに限って、俺なんかはワニにやられちゃったりしてるんだよ、これが」
「……それが何? 最悪、私がいるし」
言葉では強気だったが、ソフィーさんのタバコを持つ手は微かに震えていた。
「果たして、そう上手くいくかな? 最悪っていうのは輪をかけて起こるもんだ。そこに山賊の集団が現れる。そうなったら、どうなると思う?」
「……どうなるの?」
灰がポトリと地面に落ちる。大賢者を見つめる彼女の表情は真に迫っていた。
「揉まれっちまうぞ? お前なんか、すぐに」
そんなわけあるか。
私の心の声とは裏腹に、絶対強者であるはずのソフィーさんは顔を俯かせた。先ほどからずっと、大賢者のたわごとを素直に聞き入れている彼女に愛嬌を感じつつも、私はこの夫婦が織りなす絶妙なハーモニーに耳を傾け続けた。
「……どうしろって言うの?」
「だから最低でも、俺とアシハラが寝転んでも余裕のある広さは必要になるぞ、っていう話」
「あとは?」
「荷物だな。車体の上に乗っけるんであれば、雨に濡れるから、そこへ被せる布と紐が必要になってくるし」
「嫌よ、そんなの」
「じゃあ、下だな。床下収納なんかは、どうだ?」
「それなら、馬車に布を被せたりしない?」
「当たり前だろ、床下なんだから。もし、それをやるんだったら、外からも荷物を取り出せるようにした方が便利だぞ?」
「どうやってやるの?」
「まずは……」
今回は天然な部分のあるソフィーさんが、大賢者によって丸め込まれる結果となった。
「なんだかんだ言って、仲良いよね? あの二人」
「たまにはこっちのことも、考えてほしいですけどね」
アシハラと一緒になって、私は苦笑を浮かべた。




