110 旅立ちの計画
ざらついた感触の羊皮紙を広げると、そこにはほとんどが枠線だけで囲われた、シンプルな大陸図が描かれていた。最北端に位置する、このイルハレバナ周辺の起伏だけが色鮮やかに浮かび上がっている。
南の高台に展開されている、鬱蒼とした森林。北に広がる海は、美しいコバルトブルーに染められている。獣の角のように伸びた二つの岬に守られた港町。よく見れば、町の建造物までが一つひとつ縮小されて描かれていた。
「これは……」
あの店主は『魔法の地図』だと言っていた。特性上、この地図は行ったことのある場所を自動で描くものだ。残る問題は付属の羽ペンの使い方と縮尺率についてだった。
「ソフィーさん、ちょっといいですか?」
どうしようもない問題には、開発者にヘルプを求めるに限る。食後の余韻を邪魔したにもかかわらず、彼女は嫌な顔ひとつせずにこちらまで歩いてきてくれた。
「もうイブちゃんで覗いてみたの?」
「え?」
ソフィーさんの思わぬ第一声に、私は肩に乗せたままの使い魔へと視線を移した。
『タルちゃんがいれば、それだけで十分』
自然と、あの店で彼女が口にした言葉が思い起こされた。
きっと私にしか『視る』ことのできない、特別な仕掛けがあるのだろう。私は片方だけ瞼を閉じ、意識を集中させた。
私の肩に座り、小さな足をブラつかせた先に『魔法の地図』が広げられている。そこには私の視界には映らなかった情報が、光となって浮かび上がっていた。
イルハレバナの南南東に記された『エシュ・ヤハム』の文字はオレンジ色に。
そこから西南西にある『オルセメス』が濃い紫色。
そして北大陸の最南端中央に位置する『バル・エイドラム』は、黄金色に輝いて『視え』た。
地図に浮かぶ文字の色は、まだ加護を受けていないメンバーの魔力色にそれぞれ対応していた。
「これ全部『ニューロード』で結ばれている、ということでいいんですか?」
念のために確認すると、彼女は微笑みながら頷いた。
イルハレバナから伸びる、曲がりくねった『ニューロード』の道筋が『視え』る。大河のように大陸を縫うこの道が、最初にぶつかるのはサラマンダー君のオレンジ色。次の目的地は『エシュ・ヤハム』ということになる。
「エシュ・ヤハムまでは、具体的にどれくらい離れているんですか?」
話は逸れたが、巡り巡って私が最初に持った疑問を聞き出すことになった。実際の距離と地図の縮尺率。基本的なことを聞いておかなければ、旅の計画はおろか、道案内すらままならない。ところがソフィーさんときたら、私の言葉をまるで理解していない、少女のような顔つきで呟いた。
「……さあ?」
思わず、両眼を見開く。
「え? え? 冗談、ですよね!?」
「ちょっと、わかんないかも」
嘘だと言ってほしかった。私は仰け反り、そのまま流れるようにベッドへと倒れ込んだ。
「楽しそうだな、俺も混ぜろ」
ベッドが沈み込み、脱力していた体が脇へと吸い寄せられる。そこには、上半身裸の大賢者が座り込んでいた。体を起こすと、すでに彼はその手の中で地図を広げて、自分の指を当てて何かを測っているところだった。先ほどまで彼と一緒に窓辺にいたキラは、ダイニングへと合流して、そちらでつまみ食いを再開させていた。
「……可視化されてる部分については、ざっと計算して、お前を中心に半径百キロってところだ」
「どうしてわかるんですか?」
私が尋ねると、大賢者はこともなく、町の東南東に位置する四角い建物を指差した。
「あのどデカい銀行が、六、七十メートル。そこから港までの距離が、直線でその十倍の六百から七百メートル。これがちょうど計算しやすい。諸々の歪みを考慮しても、せいぜい誤差は数キロ。ソフィーの性格も考えると、それくらいの機能を持たせるのが妥当でもある。何か、ご質問はあるかな?」
この男、そんなことを考えて、しかもいちいち記憶しながら町を歩いていたのか。
またしても大賢者に騙されていた私は、すべての計算を彼に丸投げにすることにした。
「エシュ・ヤハムという町が、この辺りに……」
何か指す物はないかと周囲を探し、近くで転がっていた付属の羽ペンを掴む。向き直った私は、彼にもわかるよう、その羽ペンで地図上の『エシュ・ヤハム』のある地点を小突いた。
「は?」
その瞬間、地図が真っ白になった。それまでにあったイルハレバナの起伏はおろか、大陸の枠組みすらない、文字通り、ただの真っ白な紙へと変貌してしまった。
「この地図には、メモ機能が付いているの」
「……びっくりした。ホントにびっくりした……ホントに……」
驚きすぎた私は小声で、そして自分でもなぜかはわからないが、半分笑いながら同じ言葉を繰り返した。
「何、喜んでるんだよ?」
そう言う大賢者もニヤリと笑っていた。
ほんの一瞬のことだったが、地図に付加された無駄機能は、私の脳から感情まで、すべてを真っ白に染め上げた。深呼吸をして、平常心に戻す。落ち着きを取り戻した私は、すぐさま問題解決へと乗り出した。
「これ、どうやって戻すんですか?」
「そのペンで、三回つついてみて?」
リズミカルに三度小突くと、まっさらな紙はきちんとしたリシオンの地図へと戻った。
「……メモ機能への切り替えも、三回にしてもらえます?」
「わかったわ」
苦情に近い要望も通り、本題に入る。私は、今度はペンの反対側を使って、そっと地図に触れた。
「エシュ・ヤハムという町が、この辺りにあるみたいなんですけど、馬車を使うとして、どれくらいの期間がかかりそうですか?」
地図に描かれている部分の半径が百キロだとして、目測でその八倍はあるだろうか。エシュ・ヤハムは、高台の森を越えたさらに先の方に記されていた。
「馬車の性能にもよるが、大体……三十日弱ってところか」
「三十日!?」
この世界に来て、まだ二日目なのに。ここからそんな長期間の、しかも馬車での旅。不安を感じた私はテーブルについているキラ、それから近くにいるソフィーさんへと視線を移した。
「つっても、現実の馬車だったらの話だぞ? そもそもコイツが、そんな長旅に耐えられるわけねぇんだから、実際は違うんじゃねぇか?」
大賢者の力強い視線は、ソフィーさんをまっすぐに射抜いていた。図星を突かれたのか、彼女は両腕を組んで、素晴らしい星空でも眺めるかのように天井を仰いでいた。
「……移動は一週間ぐらいにするわ。エシュ・ヤハムについたら、そこで一度、現実世界に帰りましょう」
ソフィーさんの口から、今思いついたかのような計画が飛び出す。
「そうと決まれば旅立ちの準備だ。馬車を買いに行って、水に食料に、軟弱者どものために雨具やら防寒具も整えてやらなくちゃな? なにせ、保護魔法は使えねぇんだから。あとはトイレを掘るためのスコップ。これは絶対に外せないな。というわけで、全員、行動始め!!」
何がそんなに楽しいのやら、大賢者は浮足立って号令を発した。私といえば、警備局員時代の特殊訓練である『キャンプ』の記憶がうっすらと蘇っていた。




