108 魔法の地図
私の手のひらには少し余る、タロットカードくらいのサイズ感。表面に『はじまりの木』が刻印された、ずっしりと重たい金色の板。これが一枚で一万リーブ。この世界における最高額の貨幣である。
他はすべて円形の硬貨で、千リーブ硬貨には樹冠が、百リーブには幹、十リーブが枝、そして一リーブには葉の装飾が、それぞれに施されている。硬貨は額が上がるほど、そのサイズも大きくなっている。私は一枚一枚それを確かめて、カウンターの上に置いた。肩に乗せたイブの視界を通して『視て』も、その価値が変わることはなかった。
「預けたお金は、他の銀行でも下ろせるんですよね?」
ソフィーさんへと向き直り、改めてゲームシステムの確認をする。彼女は首を縦に振った。
「それで、いくら持っていく?」
振り返れば、そこには荘厳な銀行の内装にもっともふさわしくない格好の男が立っていた。上半身に己の筋肉だけを纏った大賢者だ。これまでに見せてきたどんぶり勘定からわかるように、彼の金銭感覚は一般人とは大きくかけ離れている。慎重にさせられた私は、今一度ソフィーさんへと顔を向けた。
「攻略に必要なアイテムは、この町に売っているんですか?」
彼女は少し考えるような顔つきを見せてから答えた。
「絶対に必要っていうものでもないけど、それこそ馬車を買わないと、移動手段が歩きになっちゃうかも。それと、地図が無いと困るんじゃないかしら? リシオンは広いから」
「では、最低でもその二つが買えるくらいの金額を持っていきましょう」
「馬車か……いいじゃねぇか! 旅っぽくて!」
大賢者が歓喜する馬車だけは後で全員で選びに行くとして、まずは朝食の買い出しをしなければならない。そのついでに地図が買えれば万々歳だ。
「そんなにするんですか?」
私の目は、ソフィーさんが袋にしまい込んだ五枚もの千リーブ硬貨を見逃さなかった。
「ええ。馬車の値段はピンキリだし……」
どうせ一番大きいものを選ぶに決まっている。ソフィーさんはそう言いたげに、大賢者の横顔を冷ややかに眺めた。
「よし、さっさと行こうぜ」
見知らぬ世界に放り込まれたのに、その身一つで、しかもたった一晩で十分すぎるほどの額を稼いできた男は、すべてを無視するように力強く外へと飛び出した。心の中では呆れながらも、唯一の背中に守られながら、私は彼の後に続いた。
「ありがとうございました」
銀行員の事務的な挨拶が、遅れて背後から響いた。
次に私たちがたどり着いたのは、銀行の近くに展開されている市場だった。先日訪れた港町の市場と比べて何が違うかと言えば、まずは客層。縫い目ひとつない一枚布を羽織った婦人たちの姿が少なくない。実際に置いてある商品の値段は変わらないが、世界観的にはここが富裕層の多い区画ということを示しているのだろう。次に気になったのは匂い。嗜好品であるコーヒーの香りに混じって、香水の匂いも漂っている。この作られた世界にも、身分差があるのだと知見を広げることができた。
大通りにぎっしりと密集した店舗群には何でもござれ。色とりどりのフルーツや木の実、焼き立てのパン、新鮮な魚介やこんがりと焼かれた肉まで、幅広く食料が取り揃えられている。壺に入った暗褐色の液体はジュースだろうか。オイルや薪なんかも売られている。これなら全員分の朝食を確保できそうだ。私が油断した、その時だった。
「……クサッ」
嗅覚より先に舌が動いた。発酵というよりは腐敗臭。もっと例えるならば、キラの足の裏。私の鼻を突いたのは、納豆のように強烈な臭いだった。
「おお。一瞬、キラがいるんかと思った。なんだ、これ?」
大賢者は臭いの発生源へと悠々と近付き、若年の店主に尋ねた。
「名物のブルーチーズカスタードですよ。いかがです?」
ドロリとした黄色の液体でいっぱいになった大鍋をかき混ぜながら、その店主は笑顔を向けてきた。
「どうやって食べるんだ?」
「この辺りでは、ラスクにディップして食べます」
「イチかバチか試してみるのもいいかもな。一瓶くれ」
「ありがとうございます」
片眼を閉じて、背後からその値段を覗き見ると、瓶も込みで二リーブだった。身勝手な買い物だったが、文句はなかった。誰の口にも合わなかった場合は、大賢者が完食することを知っているからだ。何より、私自身が彼と同じように風変わりな食べ物には興味を惹かれていた。
「出入り口付近に、パンを売っているお店がありましたよ?」
「うむ。ラスクはそこで買うとして……まあ、一往復して戻ってくれば、ちょうどいいんじゃないか?」
私たちがやり取りをしている間、支払いをスマートに済ませていたのはソフィーさんだった。なんだかんだとあったが、右も左もわからないこの世界での買い物のスタイルだけは、着実に定着しつつあることに気がついた。
半分ほども進むと、市場はその様相を変えていった。食料品を扱う店は極端に少なくなり、日用品や雑貨、はたまた刀剣や宝石類といったものを並べる店が目につくようになった。
少し探せばありそうだ。私がそう思ったのは、羽ペンやインク、そして丸めた羊皮紙を積み上げる露店を目撃してからだった。
私は両眼を閉じて、完全にイブの視界を同期させた。ソフィーさんのフィルタリングのおかげで、直近にあるデータと重要な情報だけを読み取るようになった彼女の視界は実にクリアに映った。
羽ペンとインクはセットで一リーブ、羊皮紙は一枚三リーブ。この店に地図らしきものは置かれていない。他の店に目を向けさせると、カバンや服には数リーブから数十リーブ、刀剣や宝石類には二桁から三桁の値段がバラバラに付けられていることがわかった。
だが、その奥にある、市場とは関係のない小さな建物。そこだけは、はっきりと違って見えた。その建物は、まるで私を導くように白い輝きを放っていた。
「あの店に寄ってもいいですか?」
目を開けて見てみると、その店は人目を避けるような路地の裏手にひっそりと佇んでいた。上部に備えられた看板には『はじまりの木』と思われる、豊かな枝葉を茂らせた黄金色の樹木が描かれていた。
「見つけられたのね?」
こちらのペースに合わせて挙動を見守っていてくれたのだろう。ソフィーさんが教師のように温かな声で肯定してくれる。
「地図か。どれ、ちょっと行ってみようぜ」
この世界での大賢者は、どこまで読み切ることができるのか。少なくとも今の彼は、ただの好奇心旺盛な同級生のそれだった。それも、不良の。
修学旅行の班行動を頭の中で思い描きながら、今度は私が先頭を切って路地へと歩き始めた。
何の店かもわからない、その空間は埃とカビのにおいが立ち込める場所だった。扉の軋む音が鳴りやむと、すぐそこにあった市場の喧騒は遮断された。
しんと静まり返った店内のカウンターに座っていたのは、黒いフェイスヴェールで鼻から下を覆い隠す若い女性だった。大きな目が特徴的な、おそらくは美人だと思われるその店主は、こちらを見るなり、陰りのある落ち着いた声で私たちを歓迎した。
「いらっしゃいませ。ご用件は何でしょう?」
耳が痛いほどの静寂の中で、大賢者が最短距離でカウンターまで移動する。
「……こいつ」
彼は何のためらいもなく、店主のフェイスヴェールへと手を伸ばした。
「ちょっと!」
その腕を掴み、無礼な行為を強制的に止めたのはソフィーさんだった。彼女がいつそこまで行ったのか、私には捉えることができなかった。
「……まぁ、いいか。タル、用件を言ってやれ」
言われるがまま、カウンターへと近づく。一歩踏み出すごとに埃が舞い上がる。店主の背後に備えられた本棚にある蜘蛛の巣までがはっきりと見えるまで、私はその距離を縮めた。
「地図を探しているんですけど、この店に置いてありますか?」
「魔法の地図は千リーブです」
このイルハレバナのどこにもなかった『魔法』という言葉が不意に出てくる。私は思わず、大賢者とソフィーさんの顔を交互に仰ぎ見た。
「一枚でいいのか?」
「ええ。タルちゃんがいれば、それだけで十分」
困惑する私をよそに、夫婦は勝手に話を進めた。ソフィーさんに至っては、すでに千リーブ硬貨をカウンターへと置いていた。
「お買い上げ、ありがとうございます」
店主がカウンターの下から取り出したのは、羽ペンと丸められた羊皮紙のセットだった。もちろん羊皮紙の方が地図なのだろう。
黙って見ていても、誰も触れようともしない『魔法の地図』とペン。再び大賢者とソフィーさんを仰ぐと、彼らはゆっくりと頷き、私にその役目を担わせた。
これ以上の長居は無用。異様な雰囲気が漂う中で、地図を懐にしまった私はドアを目指した。後ろからは大賢者が大きく床を軋ませる音と、ソフィーさんの小さな衣擦れの音がついてきた。
「エリシェバのご加護がありますよう……」
扉が閉まる直前、店主の口から『はじまりの木』の女神の名が告げられた。振り返ると、今くぐったはずの扉も、頭上にあったはずの看板も、最初から無かったかのように消え去っていた。




