106 早朝の港町
夜の眠りにひとたび意識を落とせば、そこは港町イルハレバナの宿になった。
瞼を開く前から聞こえる、潮騒と海鳥たちの声。まだ気だるさの残る意識に割り込んできたのは、大賢者の俗な一言だった。
「さてと。今日はどうするかなぁ」
条件反射的に目を開き、状況を確認する。
最初に目についたのは、前回大賢者が海賊たちから奪ってきたお宝と報奨金の入った袋だった。それらは力任せに部屋の角に押しやられていて、この作業を行った人物の防犯意識は極めて低いと分析できる。大賢者のことだから、あえて犯罪者をおびき寄せているのかもしれない。
続いて映ったのは、一輪挿しの花瓶が置かれただけのダイニングテーブルと、壁際に並べられた七つのベッドだった。出入り口に一番近い大賢者とソフィーさんのベッドだけが空で、あとは私を含めて全員が自分のベッドの中にいた。
リシオン大陸の朝は、まだ薄暗かった。ベッドを抜け出して、手首や足首をグルグルと回転させてみる。取り立てて、異常は見られなかった。
「……おはようございます」
「おう、早いな」
この世界で頑なに『デミナス・ケブラ』を名乗り続けている大賢者は、上半身裸の状態をキープしたまま、窓辺に立っていた。昨日の海賊討伐で負った傷跡は、すっかり消え去っていた。
湿り気と塩気を孕んだ涼風が顔を撫でる。異国情緒あふれる朝の空気は、どこか神聖なものにも感じられた。
「ソフィーさんは、どちらに?」
「知らねぇ」
おおよそ夫婦関係にあるとは思えない、冷たい返答だった。しかしこの態度こそが、彼とソフィーさんの表面的な関係をよく表しているとも言える。
静かな朝にふさわしく、部屋の扉が厳かに開かれた。視線を向けると、ソフィーさんが部屋に入ってきたところだった。
「お風呂……作っておいたわよ?」
現実世界で大賢者に言われたのが、よほど癪に障ったのだろう。ソフィーさんの第一声は、ゲームの攻略にはまったく関係ないと思われる、施設の追加についてだった。
「やるじゃん。どこにあるんだ?」
ソフィーさんは何を言うこともなく、階下を指さした。すると大賢者は頷いて、抜け出すように部屋から出ていった。
長いスカートを滑らせながら、ソフィーさんがこちらへと近づいてくる。何を考えているのかわからない、彼女の深い緑色の瞳はいつでもミステリアスで、同性の私が見とれてしまうほどに美しい。微かな笑みを湛える口元も麗しく、やがて彼女は私の横に並び、外の景色を楽しみ始めた。
「ねえ、タルちゃん。海水のお風呂って、入るとどうなるの?」
「え?」
口を開かれても、私には彼女が何を考えているのか、さっぱりわからなかった。
特技である烏の行水を終え、大賢者はあっという間に部屋へと戻ってきた。
「おい。お前、風呂の水を意味もなく海水にしたろ? おかげで、体中ベッタベタなんだけど?」
彼はテーブルに腰掛けながら、新システムへの不満を口にした。
「ふふふ。意味ならあるわよ? だって、ここは港町だもの」
してやったりと笑うソフィーさんだったが、大賢者が本気で怒るときはもっと言葉が鋭く、声が大きくなる。彼の秘書官である私というフィルターを通して分析すれば、洞察力の鋭い大賢者がそんなことを見逃すわけがない。つまり、彼は妻の心を満たすためだけに、あえて罠を受け入れたのだ。
「タル、風呂入り終わったら、くれぐれもシャワー浴びてから出ろよ? 股間周りが滅茶苦茶なことになるぞ?」
「そうさせてもらいます」
性別を超越した、具体的なアドバイスも時折飛び出す。その点に関しては嫌がる人も多いだろうが、私はすっかり慣れていた。
「さて、まずは朝メシの確保からだな。ここの飯はマズいから、外で買い物をしてこよう」
フットワークの軽い大賢者が、目的の提示をする。それは別に構わないのだが、私の目にはどうしても彼の背後にある不便が映り込んでいた。
部屋の角に密集させられた宝の山。その中で、詰まりすぎたリーブ硬貨が袋から溢れ出ていた。買い物をするにしても、これをいちいち運ぶのは手間になる。
「この世界の硬貨って、一種類しかないんですか?」
私はソフィーさんに助けを求めた。すると彼女は、指を折って何かをカウントし始めた。
「全部で五種類あるわ」
ソフィーさんは折りたたんだ指を可愛らしく広げ、自慢げに報告してきた。
この世界を創造した神は、聞いたことにしか答えてくれない。私はその先にある関連事項を深く尋ねた。
「両替みたいなことって、できます?」
「もちろん。銀行があるから」
大変だ。この世界は、本当に大変だ。他に彼女が何を隠しているのか。隠しているというよりは、説明してくれていないことが、どれだけあるのだろう。想像するだけで、頭が痛くなってくる。
「行き先は決まったな。俺たちは下で待ってるから、お前はさっさと風呂に入ってこい」
「はぁ……」
溜め息と返事、両方の意味を込めた声を漏らし、私は部屋を後にした。
宿の地下に張られた塩水風呂は、上がる際にシャワーさえ浴びれば素晴らしいものだった。体中に血が巡り、直前まで抱えていた心労すら吹き飛ぶ、そんな効果さえ感じた。
集合場所は宿の一階。そこにはやはり、あの男性店主の姿があった。彼はニコニコと愛想よく大賢者の話し相手をしていた。
「……そういうことで、よろしく頼む」
「かしこまりました。お気をつけて、いってらっしゃいませ」
合流した矢先、店主は大賢者に向かって深々と頭を下げていた。何事だろうと、私は近くにいたソフィーさんの顔を仰いだ。
「どうしたんですか?」
「伝言を頼んだの。アシハラさんたちが、ここで朝食を済ませないように」
「なるほど」
ろくに魔法が使えないばかりか、書置き一つ残せない現状を思い出す。大賢者の機転とコミュニケーション能力の高さがここで活かされたというわけだ。
「ありがとうございます」
ふいに目が合った大賢者に、お詫びに近いお礼を述べる。立場上、本来ならば私がしなければならなかったことを、彼は率先してやってくれていた。
「うるせぇ。いくぞ、メスども」
大賢者はぶっきら棒に言い放つと、ぎっしりと詰まった金貨袋を背負って歩き出した。出遅れた私とソフィーさんはお互いに顔を見合わせ、そのわざとらしい粗っぽさに苦笑を浮かべた。




