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大賢者の秘書官イシュタル ~何者でもない魔女の一生……になるはずだった~  作者: ふるみ あまた
5章 ゲームの章

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105 迎えた朝は

 

 質の悪い酒など、まるで飲んでいないような、すっきりとした目覚めだった。


 カーテンの端から漏れる朝光が、私に違和感を抱かせる。


 潮の満ち引きの音も、鳥たちの鳴き声も耳に入ってこない。


 大小二つのイビキだけが部屋に響いている。


 私はゆっくりと体を起こし、状況の確認をした。


 視線を落とすと、左右に配置されたベッドの中で、キラとピィちゃんがそれぞれ熟睡している。他に誰がいるわけでもない。それはいつもの部屋で迎える、いつもの朝だった。





「アシハラさん!」

「おはようございます、イシュタル殿」


 ろくに身だしなみも整えずキッチンへと飛び込むと、そこにはいつも通りアシハラの姿があった。彼はしっかりと身支度を整え、日課の米研ぎを行っていた。


「あのっ……」

「どうしましたぁ?」


 あまりにも日常的な応対。しかし、相手はあのアシハラだ。揺らぎかけていた確信が崩れきる前に、私は考えを口にする。


「私たち、昨晩までイルハレバナの宿にいたはずでは?」

「そうなんだよねぇ」


 研いだ米をザルにあげながら、アシハラはなんてことはないといった様子で答える。予測した通り、彼はこの出来事に動じていないだけだった。


「そうなんだよねぇって……」


 ひとまずの安心を覚えると、両足から力が抜けていった。そのままよろけるようにカウンターに座り込む。めまいが襲ってきたような気がして、ついでにぐるりと視線を走らせてみる。


 警報装置に、ナッツの瓶。キャビネットも水槽もそのままだ。フルーツバスケットに、窓辺のコタツに、壁際のテレビだって、もちろんそこにある。


 間違いない。視界に飛び込んでくる光景は紛れもなく、いつものリビングの姿だ。


「はい、どうぞ」


 コトンと、目の前にオレンジジュースが置かれる。私は何も言わず、アシハラの顔を見た。


「夕べは、ひどい悪酒だったねぇ?」


 アシハラは慈愛の心を見せながら静かに微笑んだ。私は、あの焼けつくような酒の味を忘れようと、グラスに注がれた色鮮やかな果汁を流し込んだ。すると、あの世界には無かったフレッシュな味わいが口の中いっぱいに広がり、芳醇な香りが鼻を突き抜けていった。


「……それで、何だったんですか? 昨日の、その……体験というか」


 アシハラは私の質問には答えず、その代わりに視線を動かした。見ると、そこには大賢者が立っていた。


「わかりやすく言うと、俺たち全員、ソフィーに精神をぶっこ抜かれてたんだよ」


 開口一番で疑問の核心を突くと、大賢者は流れるように私の横に腰掛けた。目の前には大地、隣には大空。タイプの違う二つの安堵に包囲された私は、少し恥ずかしくなって、跳ねた髪をそっと撫でつけた。


「あの世界には、風呂が無かったな?」


 小さなアクションすら見逃さない大賢者は、私にニヤリと笑いかけてきた。


「しょうがないじゃない。時間がなかったんだから」


 あのゲームの制作者であるソフィーさんまでやってきた。彼女は大賢者ではなく、わざわざ回り込んできて、私のもう反対側に座った。


 ついに現れた創造神に、私は臆することなく質問を投げかける。


「私たちの精神をあっちの世界に送ったのは、いつなんですか?」

「タルちゃんたちが寝たあと」


 ゲームの世界と同様、彼女はごく短い言葉で淡々と答えた。


 つまりは無断で精神の乗っ取り行為をされていた。倫理観は酷いものだが、行為だけを切り取ってみると、それは彼女の魔力の強さを証明している。なにせ大賢者やアシハラの精神ですら操っているのだから。さらには、身体に触れずして同時多発的に行えるという点も恐ろしい。原理を考えれば考えるほど、人の域を飛び越えている。改めて、ソフィーさんには畏怖の念を抱かざるを得なかった。


「一日だけで、テストプレイは終わりか?」


 そんな私をよそに、泰然と尋ねたのは大賢者だった。アシハラに差し出されたグラスを弄びながら、ソフィーさんは答えた。


「ううん。一応、相談しようと思って。どれくらいのペースで遊んで、いつこっちに帰ってきたいのか。そういうの、聞いてなかったから」


 聞いていないのは精神ジャックの件も同じだ。それは無許可で行ったのに、なぜ今さらそんなところにこだわるのか。彼女の倫理観は、矮小な人間である私には理解しがたいものがあった。


「昨日聞けばよかったろう? 昨日っつっても、ゲームの中の話だけど」


 大賢者の指摘はもっともなのだが、それどころではいられなくなっていた私はあれこれと考え込んだ。


 時間と世界、そして倫理観。ズレにズレたこの三つの要素が放り込まれたのは、私の頭の中にある鍋。一緒くたに煮込まれ、ごちゃまぜになった情報が、まったく調和してくれない。


 過去トップクラスにどうにもならないこの状況。責任の所在はどこにあるのか。ソフィーさんの作ったゲーム。それをプレイしたいと最初に言い出したのは私である。


「……その、プレイ時間に関しては、調整できる感じなんですか?」


 辛い現実から逃げ出すように、私は会議に参加した。


「ええ、いくらでも。でも、連続で遊ぶのは二週間ぐらいまでにしておいた方がいいかも。あんまり長く精神を離れさせると、ちぎれちゃうから」

「そう……なんですね」


 その先にあるのは、おそらく無限の闇。ちぎれるとどうなるのか、なんていう話題には突っ込めなかった。私はもう一つの疑問、今度は物質的な話をソフィーさんへとぶつけた。


「ゲームの中で流れた時間だけ眠る、っていうことですか?」

「ううん。圧縮させているから、どれだけ向こうで過ごしても、こっちでは一晩しか経っていないわ」

「……なるほど」


 魔法界には『時の牢獄』というものがある。最近になって廃止された刑罰だが、仕組みとしてはそれとまったく同じだ。


「うーん……」


 唸るしかなかった。真実を知れば知るほど、自己嫌悪に陥る。そんな中、私の肩に乗ったずっしりとしたものを取り払ってくれたのは、魔法界最強の二人だった。


「まぁ、一週間ぐらいで帰ってくれば問題ないだろう。アシハラ、タバコ吸いに行こうぜ?」

「御意」

「火は持ったか?」

「デミナス・ケブラ殿がおられれば、ご心配は無用かと」

「フハハハハ! 今から寝るのが楽しみだな!」


 向こうの世界での設定を揶揄しながら、二人は賑やかに玄関へと向かっていった。


 ふと隣を見ると、ソフィーさんもその表情を和らげて彼らを見送っていた。


 あれだけタフな男たちがついているのなら、まったく問題はない。いつだって、そうだったのだから。


「ピ……」

「面白いけど、メシがマズすぎる夢を見た。ムガはどこだぁ?」


 入れ替わるようにして、ボサボサ頭のキラと寝ぼけまなこのピィちゃんが揃って姿を現した。大賢者たちの寝室に繋がる通路からは「キュッ」という甲高い音が鳴った。振り返ると、あくびを終えたサラマンダー君がブルブルと体を揺らしているところだった。

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