101 女神の加護【レオナルドファミリーお伽班の場合】前編
空を渡る海鳥たちの鳴り声と、砂浜に打ち付ける波のさざめきが響き渡る。磯と塩気の混じり合った開放的な香りと粒とも思わせぬ細やかな砂の感触が、ここが現実ではないと訴えてくる気もする。
「すごいなぁ。よくわからないけど」
景色と空気が綺麗であればあるほど、葦原無我のニコチン切れは深刻になっていった。袴に手を入れてみても、その懐は虚しく。今はただ、目の前の保育を優先せねばと、人ならざる童に目を向ける。
「ピィ!」
ピィちゃん殿はまた浜辺に落ちているものを拾い上げて、誇らしげにそれを差し出してくる。
身長百八十三センチ、体重百二十五キロ。木彫りの力士像のような体を屈めたアシハラは、一緒になってその物体を眺めた。
「さて、なんだろうね。サザエかなぁ?」
「ピィ?」
貝なのか石なのか。今しがた浜に打ち上げられた、暗黒に近い青色を帯びた怪しい物体。その異様さも、二人のお伽ぶりを前にしては霞んでしまう。
「ピュピィ?」
「わかる? オジサン、煙草吸いたくなっちゃったの」
「ピィ!」
「うん。まぁ、きっとイシュタル殿たちが買ってきてくれるから……それにしても、綺麗だねぇ?」
「ピィ!」
「ハハハハハ……」
我慢の限界を迎えつつあるアシハラの笑いは乾いていた。気晴らしとばかりに彼は拳を握りしめ、そしてもう一度開いてみた。
「……どういうことなんだろう?」
「ピ?」
認知は変わらないが、微かに動作が鈍いか。例えるなら『心ここにあらず』の真逆。この世界では生身の肉体ではなく、精神がその代わりを果たしているようだ。それなのに自分にも周囲にも、一切の魔力を感じない。それはここが一つの世界だからなのだろう。
朧げながら見えてくる、この世界の原理――。
「まぁ、いいか」
「ピィ」
そんなことより、早く煙草が吸いたい。そのとき、ピィちゃん殿の手の中にある怪しい物体が光を放った。
「眩しっ!?」
「ピィッ!?」
「――ははは! もっとイジめてやろうぜ!」
「こいつめ! どうだ!? 痛いか!?」
不意に聞こえてくる、男たちの威圧するような声。見れば、二人の若い男が棒を握って、何かを袋叩きにしている。
「あらららら。助けなきゃ」
「ピィ!」
立ち上がる巨体と、それについてゆく小さな背中。レオナルドファミリーお伽班が、持ち前のおとぼけぶりを発揮する。
「あのぅ……煙草、持ってませんかぁ?」
まずは丁寧なカツアゲから。
ヒゲ面に長髪、そしてサイズの合わない襤褸が小汚い。こいつらなら持っていそうだ。
アシハラは、その男たちの身なりからそう判断した。
「なんだ、おっさん? 何か用かよ?」
微妙にかみ合わない若者たちとの会話。切羽詰まっていたアシハラは、これに不機嫌になる。
「だから煙草持ってねぇかって、聞いてんだよ」
「――助けてください!」
迫真の叫びに、出しかけていた昔の表情を引っ込める。男たちの足元で、亀の甲羅を背負った裸の女が丸まり、体を縮こまらせていた。
「えぇっと……なんだぁ? カッパ?」
その女の異様な出で立ちに、百戦錬磨のアシハラも困惑の色を浮かべるしかなかった。
「ピ?」
心優しく、美人なお姉さんが大好きなピィちゃん殿は、小さな手をそっと彼女の甲羅の上に乗せる。
「あの……?」
「ピ?」
しかしその動きは、手にしていた怪しい物体を甲羅の上に乗せる遊びへとシフトしていた。
「てめぇら、何ふざけてんだ!!」
「いいえ、オジサンたちは大真面目に生きております。それで話は戻るけど、お兄さん方、煙草は持ってるの?」
「うるせぇ!!」
激昂した男たち。一人はアシハラに、もう一人はピィちゃん殿へと殴りかかってくる。
誰よりも早く、アシハラは大きく前へと左足を踏み出していた。同時に両手を突き出し、左手で相手の手首を制しながら、棒が右手に触れた刹那、僅かに力を流してやる。
一方でピィちゃん殿は手にした物体を輝かせながら、口から高圧の水鉄砲を噴出させていた。
瞬く間もない。砂浜には静寂が訪れていた。
地面に転がっているのは、気を失った二人の若者。
対して立っているのは、左右の手の中で確かめるように棒を行ったり来たりさせているアシハラと、輝きを失った物体の所在をどうするか考えているピィちゃん殿だった。
やがて二人は互いに顔を見合わせ「やっちゃったね」と、可愛らしくも白々しい反省の色を見せる。
「ピ、ピ! ピピィ!」
「もののついでだし、そうね」
次に始めたのは死体漁り。
厳密には死んでいないので、窃盗に近いものである。
二人は手早く、倒れた男たちのポケットをまさぐる。
「ははは、やっぱり!! 持ってるじゃん!!」
満面の笑みでアシハラが高く掲げたのは、求めていた紙煙草のパッケージだった。一、二本吸っただけの、中身がぎっしりと詰まった状態のそれは、彼にとっては何よりも重く感じられた。
「ピィ!」
ピィちゃん殿が手に入れたのは、火打石とオイルのセット。魔法が使えなくとも火が起こせるという、この世界では値千金の代物だった。
「ピッ」
ピィちゃん殿は、光を失い何の魅力もなくなったオブジェクトを投げ捨てた。その代わりに新しく手に入れた道具で、これ見よがしに火を起こす。
それを見たアシハラはすかさずしゃがみ込み、タバコをくわえて火を灯した。
のんびりとした白煙を、潮風がさらってゆく。
「……ふぅ~」
ようやくのことで禁欲から解放されたアシハラの顔に、いつものひょうきんさが戻った。
「最高だねぇ。ちょっとスース―するけど」
それは苦み走った大人の味を阻害する、メンソールの効いた煙草だった。だがもはや、吸えれば何でもよかった。
「ピピィ!」
「うん、よかったよぉ。ありがとうね、ピィちゃん殿」
深く肺に収めて吐き出す煙は、人助けの充足感すら忘れさせるほどの報酬となった。というよりも実際、アシハラはそのことを忘れていた。
「あの……? ありがとうございました。わたくしは、マイムと申しまして、その……」
「あぁ、そうだったね。はいはい、気をつけて帰ってください」
甲羅こそ背負っているが、目の前にいるのは全裸の若い女。しかも美人である。猛る若者であれば放っておくはずがないその存在を、成熟しているアシハラは適当に対処した。
「女神様の水の加護まで受けているとは!! それでは、あなたたちが伝承の一族なのですね!?」
ぞんざいな扱いを受け、マイムは声のボリュームと熱を上げて二人に訴えかける。ピィちゃん殿はその様子をポカンと見上げ、アシハラは鼻から煙を抜きながら考えた。
――加護って何? だけど、そんな一族ですよ、っていう説明は最初の方で受けたかもしれない。
こいつはえらいこっちゃ。
面倒ごとに首を突っ込んだりして、帰りが遅くなったら叱られる。
飯炊き担当のアシハラの不在は、ファミリーにとっては大きな痛手である。しかし、ここは非現実の世界。無事に帰りさえすれば、誰に怒られるわけでもない状況にある。にもかかわらず、アシハラは勝手に焦り始める。
「えっと……まずは一枚羽織ったら?」
色々と思案し、口にしてみた言葉がこれである。
「まぁ! 紳士なのですね!」
「ピィ!」
「なに? ピィちゃん殿まで。やめてよ、もう」
照れ隠しなのか、指先で鼻をくすぐるアシハラ。体格に見合わない、その可愛らしいしぐさを見たマイムは薄く笑った。
「それで? お嬢さんは何者なの?」
「はい! わたくし、実はカメなんです!」
「ふーん……うん?」
「それで、伝承の一族であるあなたたちに、もう一つの女神様の加護をお渡ししたくてですね!」
「うーん?」
「とにかく参りましょう! 加護のある島まで、わたくしが案内します!」
「うーん……ピィちゃん殿は、どう思う?」
「……ピィ?」
「さぁ! それでは行きますよ!」
どこかズレた二人組が出会ったのは、どこかズレた女だった。チュートリアルにしてはエッジが効きすぎているお伽噺は、こうして始まった。




