〔拾陸〕武士は食わねど高楊枝。
「すみません。ちと、よろしいでしょうか?」
「むぅ? あなたも忙しいですね。今度は大きい方ですか?」
何故、そうなる。
「それも天啓とやらが影響を?」
謀反の意外な裏話を聞き、是非とも真相が知りたくなった。
が、返って来たのは何とも歯痒い、期待外れな言葉であった。
「…さあ。影響したのか、しないのか…。彼が如何なる天啓を得、
それをどのように解釈したのか。なので、一概には何とも」
所詮は妄想。それをぺらぺらと他人に明かす間抜けもいないか。
「そうですよね。残念だけど、仕方ない」
「ですが、どうして? それほど重要でもないでしょう?」
「いや。まあ、単なる好奇心。ただの興味本位です」
「好奇心?」
「魔性の…、なんて言ったら叱られますかね? ですが、そうした
思いに至った理由、その根源が―――」
きょとんとした表情で見ている美咲先生に、僕は正直なところを
言った。
「―――幼女の持つ魔性的な魅力にあるのなら、一度くらい、僕も
見てみたかったなと思いまして。どれほどのものかね」
「うふふ…。そんなこと言って。搦め捕られても知りませんよ?」
やめてください。そうして、底知れぬ笑みを浮かべるのは。
「ま、とにかく。家康が首謀者でないことは理解りました。あと、
光秀の動機も。ならば、朝廷だの秀吉だのと、実しやかに囁かれて
いる黒幕説も、みんな嘘っぱちってことですか?」
「嘘…」
と美咲先生は少し逡巡してから、慎重に言葉を選んで否定した。
「嘘とまで言い切ることは、中々、難しいように思います。信長は
朝廷が提示した三職推任、征夷大将軍・太政大臣・関白、の何れも
突っ撥ねただけでなく、年号まで、朝廷の許可なく勝手に改定して
いますからね。権威を軽んじられた朝廷が、信長を邪魔に思うのは
当然のこと。光秀は公家とも懇意にしていましたから、何かしらの
打診があったとしても、別に不思議はないでしょう」
「秀吉は?」
「秀吉にしても同じくです。圧倒的有利な好戦況にありながらも、
何故か増援を要請したり、また、謀反の報を受けた後の中国大返し
にも不可解な点が多く、まるで謀反がなされることを予見していた
ような周到さ。もしかしたら、朝廷と秀吉が結託していた可能性も
充分に有り得る話です」
「だとしたら、たまったもんじゃないですね。利用された挙げ句、
朝廷からも秀吉からも裏切られ、ただ残ったのは、稀代の謀反人と
三日天下の不名誉だけ。何とも、ぞっとしない人生だ。そんなの」
死んでも死に切れないと憤慨する僕に、そういうところが早合点
なのだと、美咲先生は溜息を吐いた。
「あのね。可能性と言ったでしょう。そうした陰謀諸説とは別に、
光秀には充分過ぎるほどの動機があったことも事実です。家臣衆が
大勢見ている前で顔や頭を踏み付けにされたり、交渉のため敵国に
人質として送った母親を見殺しにされたり、突然、理不尽に領地を
召し上げられたり、と言い始めたら枚挙に暇がない程に。そういう
ことが蓄積し、内心、強い恨みを抱いていたとしても、それは無理
からぬことでしょう」
「何だかな。じゃ、その場合、殿を魔王にさせない云々は?」
すると、難しい表情で聞いていた女子が、ぽつりと呟く。
「仮にでござるが、だとしたら、見栄。精一杯の虚栄にござろう」
「…………?」
「先にも申したはず。侍とは、因果な稼業なのでござるよ」
いや。だから、おめいが侍を語るなよ。
「腹中にある怒りや憎しみ、怨恨で主君を裏切り殺めたとなれば、
それだけの度量と器量。狭く浅いと量られる。それを避けるには、
掲げる大義名分が要るのでござるよ。それが、どれほど薄っぺらな
詭弁であろうと」
「なるほど。思った以上に窮屈ですね。お侍様として生きるのも」
結局、真相は藪の中。今となっては、そいつを知る由もなしか。
「それはそうと、立花君。どうです? そろそろ、お腹が空いては
いませんか? それと体調も。少しは良くなりましたか?」
ああ。言われてみれば、たしかに。
「はい。少し空腹ですね。体調も、徐々に痺れが治まって。ほら。
少しは頭も浮かせるように」
「そうですか。それなら、あと一息。日没までには、何とかしたい
ものですね。せめて、自力で立って歩けるくらいには」
「日没?」
少し、どきりとして訊いた。年の瀬も押し迫ったこの時期。あと
半時もすれば、日は完全に沈むだろう。もし、日没で妖鬼が活発に
なるとか、出現率が上がるとかだったら、まさに俎板の鯉である。
さて。締切りに出来る護符とやらは、どこまで信頼に足る物か。
「…あの。日が暮れると、何か…?」
「何を言っているのです。帰らないつもりですか、あなたは」
「いや。もちろん帰りますよ? もちろん帰りますけどね?」
「教師、担任失格です。生徒を一人で、そんな遅くに帰したら」
あなたの生徒、高校三年生ですが。
「立花君。今から先生の言うことを良く聞いて、その指示どおりに
してください。何があっても。いいですね?」
「一体、何が始まろうとしているんです?」
「いいですね? 何があってもです」
「いや。ですから、まずは何をするのか先に―――」
「わ、か、り、ま、し、た、か?」
駄目だ。目が。目が。目が…。
「わかりましたわかりました。言われたとおりにね。はい。黙って
言われたとおりにすれば良いんでしょ。もう、わかりましたから」
「そうした投げ遣りな態度は、先生、好きではありません」
態度も何も。だから、動けないんですよ。投げ遣れないんです。
「先生は今日、あなたに命を救われた。そのことに、とても感謝を
しています。ありがとう、立花君。本当に。本当に、ありがとう」
畳に両の手を突くと、美咲先生は、そっと静かに頭を下げた。
照れますね。そんなふうに、面と向かって改まれると。
「なので、その恩人に、御恩返しをしたいと思うのは、人間として
普通のことでしょう?」
「御恩だ何だと、まるで光秀さながらで、少し大袈裟な気もします
がね。はい。普通です」
「ならば、しっかりと目を瞑り、何があっても見てはいけません。
何があろうと、その目を開けてはなりません。いいですね?」
悪いとは思いつつも、ついつい、声を上げて笑ってしまった。
「さっきから何です? 御恩返しだの、見ては駄目だのと。鶴じゃ
あるまいし、まさか機でも織ろうって―――」
「わ、か、り、ま、し、た、ね?」
何も、そこまで怖い表情をしなくても…。