5.
シャーロット様の部屋を出て、本邸へと戻る道すがら。
魔法の雨は規則正しくしっとりと降っていて、傘に当たっては一定のリズムを刻む。
「……レイン子爵領は、雨の多い土地なんだ。水の下位精霊、雨の精霊が住まう領地で、オケアーノ侯爵領と隣接している。レイン子爵家とは、幼い頃から、家族ぐるみの付き合いだった」
雨のように静かな口調で、リアム様は語り始めた。
何かを諦めたような、冷めた表情をしている。彼が時折この表情を見せる理由は、さきほどの一幕から痛いほど理解できた。
「あの離れは、レイン子爵の領地の本邸、その一部を模して、七年前に建造したものだ。庭園の一部を潰して、シャーロットの部屋から実際に見えていた景色をほぼ完全に再現している。家具も身の回りの物も、全て当時のレイン子爵家にあったものを模して新しく作ったものだ」
私は、黙って頷いた。初冬の雨は、少し冷たい。
リアム様の大きな手のひらは、帰路では私に熱を分けてはくれなかった。
「シャーロットが覚えている最後の記憶は、レイン子爵領では珍しく、晴天が続いたある日の記憶だ。――俺がレイン子爵家を訪ね、シャーロットを遠乗りに誘って、二人で子爵家を離れたすぐ後のこと。強力な魔獣が、突然、予兆もなくレイン子爵邸の敷地内に現れた」
「……子爵邸の敷地内に、ですか?」
「ああ。巨大な、鳥形の魔獣だった。貴族としての体面を考えて、後々、領内の森に出現したことにされたが」
ふむ、と私は納得した。
通常、領主の屋敷の周辺には、魔獣避けの結界が張り巡らせてある。
屋敷の敷地内に魔獣が現れたということは、充分な強度の結界が張れないほど魔力が少ないか、財政的に困窮しているか、もしくは魔獣の巣や襲撃の予兆を見逃していたか――とにかく、自身の無能を周囲に曝け出すことに他ならない。
だから、公には、レイン子爵一家は領内の森で亡くなったことにされたのだろう。
「俺が……、俺があの時、シャーロットを遠乗りに誘わず、邸内に滞在していたら……そうしたら、俺なら、魔獣に対処できた。子爵一家が犠牲になることはなかったんだ。魔獣の瘴気を浴びて魔力暴走を起こしたシャーロットが、治らない障害を負うことも……」
傘の持ち手を握るリアム様の手は、力が込められ真っ白になっている。
私は、リアム様の手の甲に、そっと自らの手を重ねた。しかし、彼の手の力がほどけることはなかった。
雨のエリアは、もうとうに抜けている。
「リアム様。あなたのせいではありませんわ。だって、魔獣が出現する予兆は、みられなかったのでしょう?」
「だが、できることはたくさんあったはずなんだ。結界の強度を確認するとか、瘴気の濃度を調査するとか」
「それでも、リアム様は子爵領を訪れていた隣人に過ぎなかったはず。なら、やはりあなたのせいではないでしょう」
「……そう思えたら、楽なんだがな」
リアム様は、深く深くため息をついた。
彼は、傘を差したまま本邸に到着してしまったことにようやく気がつき、苦笑いしながら傘を閉じた。柔らかな光が、彼の頬をいつもより白く照らしている。
「シャーロットは、子爵たちがどうなったか、知らないんだ。記憶の奥底には残っているかもしれないが、あの箱庭に、俺がすべて一緒に閉じ込めている」
リアム様は離れの方を切なげに見やった。
離れの上空には、変わらず雨雲が暗く立ちこめている。
「彼女の最後の記憶は、子爵邸から上がる火の手を見て、先に一人で駆けていった俺の背を見送ったところで、途切れているようなんだ。だから……シャーロットは、眠りから覚めたときに、必ず真っ先に俺や他の家族の姿を探す。毎回、必ずだ」
「だから、リアム様はシャーロット様のおそばを離れられずにいるのですね」
「ああ。目覚めた直後はしばらく一緒にいてやらないと落ち着かないが、その後は、短時間なら、氷菓子を差し入れることで誤魔化せる。氷菓子は長持ちしないから、俺が無事生きていて、たった今作ったばかりという証明になるんでな。……氷菓子は、俺がシャーロットによく作ってやった、彼女の好物なんだ」
けれど、氷が溶けるほどの長時間は、離れることができない……なぜなら、シャーロット様の『現在の記憶』は短時間しか保持できないから。おそらく、そういうことだろう。
「シャーロット様の記憶障害は、治らないのですか?」
「……医師にも、ルミナス公爵家にも、不可能だと言われた。シャーロットの記憶障害は瘴気病に起因するものだが、彼女の心と身体を守るために引き起こされているものでもあるのだそうだ。無理に治療すれば、彼女の心は壊れてしまう」
瘴気病とは、魔獣の放つ悪しき魔力……瘴気に侵されて発症する病気だ。
身体や精神に影響を及ぼし、時には後遺症を残す場合もあるが、光魔法で浄化、治癒することが可能である。
「改善も不可能なのですか? たとえば、『現在の記憶』の保持時間を少しでも延ばすことができれば……」
「持続型の弱い光魔法を使えば改善の可能性はあるが、シャーロットの髪色を見ただろう? 彼女は、事件の時に魔力暴走を起こして、魔力の器が壊れてしまったんだ。だから、光魔法を浴びても、それを蓄えておくことができない。そして、魔力の器を元に戻す方法は存在しない」
なるほど、つまり。
「……強い魔法で一気に治療すれば、心が耐えられない。かといって、弱く持続性のある魔法をかけてゆっくり治療しようにも、魔力の器がないために魔法を保持することができない。……そういうことでしょうか」
「ああ、その通りだ。やはり、あなたは聡明な人だな」
リアム様は、素直に私を褒めてくれた。
いずれアレクサンダー殿下と並ぶことを夢見て、努力して自らを磨いてきた結果だ。夢は破れたけれど、努力は無駄にはならず、自らの骨肉となっていたらしい。
「けれど……このままでは、リアム様が、あまりにも……」
私は眉尻を下げて、うつむく。
リアム様は、私の耳元で、ふっと小さく息をこぼした。
「そんな顔をするな。仕方がないことだ。俺はもうとっくに諦めている」
「ですが、少しでも改善することができれば――」
「良いんだ。もしも改善できたら喜ばしいことだが、それは無理な話なのだから。それに、今の状況は、俺にとっての罪滅ぼしでもあるんだ。……だが、その……ありがとう、オーロラ嬢」
そう言って儚げに微笑むリアム様の表情に、きゅっと胸が引き絞られる。
共犯関係だと言って私に枷をはめたのと同じ人だとは思えないぐらい、一途で真面目で誠実で……シャーロット様が言ったとおり、本当に不器用な人なのだな、と私は思ったのだった。




