2.
アレクサンダー殿下が執務室を離れ、私はリアム様と二人きりで取り残されてしまった。
婚約者になったとは言っても、未婚の男女なので、執務室の扉は開け放たれたままである。
「……フローレンス伯爵令嬢。殿下が紹介してくれましたが、改めて。リアム・オケアーノと申します」
「オーロラ・フローレンスです。王太子命令とはいえ、婚約者になったのですから、どうぞオーロラとお呼び下さい。敬語も不要ですわ」
「そうか、承知した。では、俺のこともリアムと。俺に対しても、敬語は要らない」
「はい、リアム様。ですが、私の方は、敬語はこのままでもよろしいですか? 私は仕事柄、敬語を使っている方が楽なので」
私がそう言って微笑みかけると、リアム様は同意を示すように頷いてくれたが、その表情は依然凍てついたままだ。
しかし、それも仕方がないと思う。何せ、リアム様には、ある噂があった。
――決して実を結ぶことのない恋をしているという噂が。
「それで……オーロラ嬢。君は……俺の事情を耳にしたことがあるだろうか」
「ええ。リアム様とシャーロット様のことでしたら、社交界で知らぬ者はおりませんわ」
私がシャーロット様の名を口にすると、リアム様は、ふうと息をついて目を閉じた。その表情から、彼の感情をはっきりと読み取ることはできない。
シャーロット様は、リアム様の義理の妹だ。
七年ほど前に、オケアーノ侯爵家の分家であるレイン子爵家の領地で、痛ましい事件が起きた。
子爵家の領主一家が、領内の森で魔獣に襲われたのだ。
魔獣はすぐに討伐されて、領民には大きな被害が出ずに済んだものの、子爵一家は、末娘のシャーロット様を残して、全員帰らぬ人となった。
唯一生き残ったシャーロット・レイン子爵令嬢は、オケアーノ侯爵家に養子として引き取られることとなったのである。
シャーロット様は、魔獣に襲われた際に負った怪我の後遺症か、その身に浴びた瘴気の影響か、事件の頃から身体を悪くしてしまったらしい。
オケアーノ侯爵家に引き取られる前のシャーロット様は、美しい水色の髪と青緑色の瞳を持つ美少女だったが、魔獣事件があってからは社交界に一切顔を出さなくなった。
時を同じくして、リアム様も社交界から離れるようになった。
それまでにも、リアム様と近しい仲だった令息たちからは、彼が昔からシャーロット様を恋い慕っていたという話で持ちきりだった。そこに来て、シャーロット様の養子入りだ。
もしも事件が起きず、子爵夫妻が亡くならなければ。
せめて、シャーロット様が病弱にならなければ。
シャーロット様は、本来ならリアム様と婚約、結婚するはずだったのではないか。
しかし状況が二人の結婚を許さず、リアム様は愛するシャーロット様を屋敷に囲うことで満足し、他で恋人や婚約者を作ろうとしないのではないか。
そんな噂が、まことしやかに囁かれるようになったのである。
「なら、話が早い。噂は概ね真実だ。だから……すまない、オーロラ嬢。俺は、君を愛せないと思う」
「構いませんわ。私も……あなたと同じですから」
私がリアム様としっかり視線を合わせたまま、何も動揺することなくそのように返答すると、リアム様は形良い目を僅かばかり見開いた。
「同じ、とは……もしや、君も……?」
「ええ。私も、報われない恋をしております。幼い頃から、ずっと」
声をひそめて、開け放たれた扉の先を見やる。
それだけで、リアム様は私が誰に想いを寄せているのか、理解したようだ。
「だから、君は結婚を選ばず、文官になったのだな。あいつの近くに――」
「――どうか、それ以上は、おっしゃらないで。他の方には、気づかれていないのです。恐らく、王太子妃殿下以外には、誰にも」
「……そう、か」
リアム様は、そっと目を伏せた。青い髪が白皙の頬に影を落とす。
「けれど、まさかご本人から政略結婚のお話が出るなんて、思いもしませんでしたわ。私とあなたは、同じ思いを抱えた同志。こうなってしまったら、見せかけだけでも婚約者として交流をいたしましょう」
「ああ、そうだな。不本意ではあるが、これは王太子命令だ。あいつの気が済むまで、形だけでいい、婚約者になってくれるか?」
「はい。受けて立ちますわ」
私が挑戦的な笑みを浮かべると、リアム様は初めてふっと顔をほころばせた。
端正な顔に浮かぶ微笑みは、存外優しい。
私がずっと慕ってきた陽だまりのような笑顔とはほど遠いけれど、思いのほか、好感の持てる笑顔だった。
「では、早速ですけれど、今後のことを擦り合わせるため、訪問のお約束を――」
「失礼いたします。オケアーノ侯爵令息様にお言伝がございます」
私がリアム様に次回の交流について相談しようとした矢先、開いたままの扉から、王宮の女官に声をかけられた。
女官はリアム様に三つ折りの小さな紙片を差し出し、下がっていく。
すぐに紙片を広げたリアム様は、表情をすっと消した。
「……シャーロットが、俺を呼んでいるようだ。急いで戻らなくてはならない。今後の件については、追って手紙で知らせる」
「承知いたしました。……あの、少しだけお待ちください」
私は急ぎ出て行こうとするリアム様を引き留め、胸元で手を組むと、魔法を発動した。フローレンス伯爵家が得意とする、花魔法だ。
手のひらから淡い光の粒が溢れ、それはすぐさま、数輪の花の形をとった。
あっという間に生まれ出たオレンジ色のガーベラを手早くまとめながら、「病気がよくなりますように」と祈りを込めて囁くと、辺りに漂っていた光が花びらに向かって収束していく。
「お待たせいたしました。シャーロット様へのお見舞いです。どうぞお大事に」
「花魔法か。美しい魔法だな。ありがとう、オーロラ嬢。シャーロットも喜ぶだろう」
リアム様は感心したように呟き、お礼を言って小さな花束を受け取ると、そのまま踵を返した。
「では、失礼する」
執務室を出て行ったリアム様を見送ると、私はソファの背もたれに深く寄りかかり、目を閉じた。
淑女らしからぬ姿かもしれないが、今はちょっと、立ち上がれそうにない。
「……疲れた……。ねえ、どうしてこんなことするの? ……苦しい……、苦しいよ、アレクお従兄様……私、もう……」
溢れてくる涙を、ハンカチでそっと抑える。
もしも今、殿下が戻ってきたら……少しぐらい、心配してくれるだろうか。それとも、はしたないと怒られるだろうか。
結局、私は少しだけ休ませてもらってから、自分の職場に戻った。幸い、私の弱った姿を殿下に見られることはなかった。
それでも相当顔色が悪くなっていたらしい。目元も腫れていただろう。私の顔を見て心配した上司から「今日は帰れ」と言われ、早退することになってしまったのだった。




