10.
あたたかい。
それに、何だか良い香りがする。
ガタゴトと車輪が路面を進む音と揺れが、心地よいまどろみの合間に差し込んでくる。
「……若様、当初の予定通りこのままフローレンス伯爵家へ向かいますが、本当によろしいのですか?」
「ああ」
短く肯定を返す、低く清涼な声が、すぐ近くから聞こえてくる。
耳から直接響いてくるような声だ。
私は、声にもっと近い場所を、もっとあたたかな場所を求めて、少しだけ身じろぎをした。
「……ん? 寒いのか?」
何かが擦れるような音がして、肩口まですっぽりとあたたかな布に包まれる。
爽やかで少し甘い香りが強くなって、私は夢うつつのまま、布に頬を押しつけた。
「ふ、寝ぼけているのか。無防備なあなたは、こんなにも可愛いのだな。新たな発見だ」
楽しそうに囁く甘い声が、耳元をくすぐる。
その声の正体と、今の自分の体勢に気がついて、私は夢から突然覚醒した。
「若様」
私が思わず瞼を震わせたところで、向かい側の席から従者らしき男性が再びリアム様に声を掛けたので、私はもう少し狸寝入りを続けることに決めた。
「もう間もなく分かれ道に差し掛かりますが」
「くどいぞ。行き先は変更しない。そもそも、既に先触れも出しただろう」
リアム様は、先ほど私に向かって掛けたと思われる甘い声とは逆に、氷柱のような声色で煩わしげに返答した。
「しかし、シャーロットお嬢様が、そろそろお昼寝からお目覚めになりますが」
「構わない。侍女がついているんだ。保冷庫に入れてある氷菓子で、何とか対処するだろう。今は、義妹よりも婚約者の方が大切だ」
リアム様がはっきりと告げた『婚約者の方が大切』の一言に、私は掛け布の中で、静かに息を呑んだ。
彼は、他の何よりも誰よりもシャーロット様を大切にしてきたはずなのに、何故――?
一人密かに混乱する私の耳に、小さなため息と、心配そうな声が降ってくる。
「知らなかったとはいえ、俺のために負担の大きい光魔法を使って、こんなに痩せ細ってしまって……。俺が責任を持って彼女を家まで送り届けて、ご両親に頭を下げないと気が済まない」
大きな手のひらで頭を優しく撫でられて、私はびくりと肩を揺らしてしまった。
「おっと……起こしてしまったかと思った。くすぐったかったのか」
リアム様は、そう呟いて頭を撫でるのをやめてしまった。
私が思わず反応してしまったばかりに……と考えて、なでなでを中断されてしまったことを残念に思っている自分に気がつき、内心吃驚する。
「……だが、最初からこんな体たらくで、ご両親は俺を認めてくださるだろうか。いや、殴られても罵られても、彼女との婚約を許していただけるまで粘るしかないよな……はあ」
リアム様は悩むような声色でそう言って、深くため息をついた。
どうやら彼は私を家まで送り届けて、そのまま、両親に謝罪と、婚約の挨拶をするつもりでいるらしい。
それも、拒否され殴られる覚悟で。
瞑ったままの瞼の裏が、じわりじわりと熱を帯びてくる。
……リアム様は今日、何度私を驚かせれば気が済むのだろう。
「……っ。くふふ」
「おい、何故笑っている」
「いえ、若様に大切な方ができて、嬉しいなと思いまして」
「……む」
対面に座っている従者は、心底嬉しそうな口調でそう言った。
笑いを堪えるつもりもないらしく、時折くすくすという笑い声が聞こえてくる。
「それに、この婚約は王太子命令でしょう。許すも何も、認めざるを得ないのではないですか?」
「いや、気持ちの問題だ。逆らえない命令だからこそ、渋々ではなくて、納得した上で受け入れてもらいたいんだよ。ただでさえ挨拶は遅れてしまったし、俺は悪評まみれだし……。大切な愛娘を預かるんだ、ご両親も心配しているに違いないからな」
「若様は本当に律儀で、クソ真面目ですね」
「クソは余計だ。あと不敬だぞ」
「……ふふっ」
「……ん?」
「……おや」
「ふふっ、ふふふっ」
笑い声が、耐えきれずこぼれる。
私はあたたかな掛け布……リアム様の外套に顔を埋めて、肩を震わせた。
「ふふ、リアム様ったら、クソ真面目。ふふっ」
「な、お、オーロラ嬢……!?」
リアム様の肩口から顔を上げて、潤んだ瞳で彼のかんばせを見上げる。
彼の頬があっという間に真っ赤になり、灰青色の瞳は動揺に瞠られた。
「私は、まだまだリアム様のこと、知らなかったみたいですわ。ふふっ、従者の方と仲がよろしいのですね。面白くなって、思わず笑ってしまいましたわ。……リアム様は、きっと、良いご主人でしょう?」
私は、身体をまっすぐに起こして、従者の男性に問いかける。
彼は、悩む間もなく即座に頷いた。
「はい。義妹思いが過ぎるところ以外は、非常に素晴らしい主人でございます」
「おい」
「ふふふっ。素敵ね」
私はひとしきり笑うと、身体の向きを斜めに変えて、リアム様へしっかりと向き合う。
「リアム様。私、もしもお父様があなたを殴ろうとしたら、ちゃんと止めますから。それに、幻滅されるかもしれませんが……私が光魔法を使ったのは、あなたのためでもシャーロット様のためでもなく、私自身のためです。だから、リアム様は何も悪くありませんからね」
「オーロラ嬢……」
リアム様は幻滅するどころか、何故か感極まったような表情で、声を上擦らせた。
「――そういうところだぞ」
私の手を取り、甲に口づけを落として柔らかく微笑むリアム様。
その瞳の奥に、ほのかな熱が燻っているような気がして、私は頬を染めたのだった。




