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「鷹宮さま」
間も無く後夜祭が始まる。ほとんど準備が整い、あとは生徒たちを呼び込むだけ。来賓の到着もすでに確認済みだ。
タキシードに着替え、ダンスホールで実行委員たちと進行を確認していた暁を呼び止めたのは、近衛麗香だった。
体のラインに沿ったシックなブラックドレスに、柔らかそうな髪をしっかり後ろでまとめている。普段の麗香よりぐっと大人びた姿に、暁は一瞬相手が誰だかわからなかった。
「近衛さん。……驚いたな、いつもと雰囲気が違うから。とても似合っている」
麗香はにこりと笑った。
「ありがとうございます。鷹宮さまも、タキシードがよくお似合いです」
「ありがとう。今日はきみのお父さんも来賓として参加してくださっているな」
暁が手元の資料をめくって麗香に確かめる。
「ええ。ご招待ありがとうございます」
「こちらこそ。今日はよろしく」
話は終わりだろうか、と思ったところで麗香がそれで、と続けた。
「鷹宮さま。お手数なんですけれど、少しお手を貸していただけませんか? 倉庫で取りたい備品があるのですが、手が届かなくて」
「ああ、もちろん」
ダンスホールの備品倉庫は一階奥側、キッチン横にある。前を先導する麗香の背中は、制服のとき以外はいつもふわふわの高級そうな布地に包まれていた気がするが、今日はシンプル過ぎるほどでひどく心許ない。
彼女の空気もどこかぴりぴりしていて、鋭利な印象を受けた。暁はそっと周囲を見回す。ホール外の廊下には着替えを終えた男子生徒が数人いるだけで、女子生徒はまだまだ準備をしている頃だ。
「こちらです」
備品倉庫に案内されて中に入る。
壁際には背の高い棚があり、雑多なものが整理して置かれている。その前には折り畳みの流しテーブルや丸椅子が積んであった。
中を眺める暁の後ろで、麗香が少し乱暴にドアを閉め、鍵をかけた。
「……近衛さん?」
暁が振り返ると、麗香が懐に飛び込んできた。咄嗟のことに暁は思わず麗香を受け止める。
麗香はそのまま、暁の胸に顔を埋めた。
「ごめんなさい」
その一言で、備品を取りたいなどというのは暁を誘い出すための嘘だったと悟った。暁は麗香を引き剥がしながら安心させるように声音を和らげて訊ねる。
「……何か言いたいことが?」
昔馴染みだ。彼女は思い込みの激しいところはあるが、善良であり規律を重んじる生徒だということを暁は知っている。何かあったのだろう。そう思って。
麗香は顔を上げた。甘い顔立ちに大きな瞳。なぜか涙を浮かべている。
「お願いです。たった一度でいいのです。ダンスを、ご一緒させてくださいませんか?」
暁は動きを止めた。……ダンス?
「それは……申し訳ないが、できない。私はあやめの手しか取らない」
「どうして? わたくし……わたくしは、ずっと、鷹宮さまがあやめさんと出会うずっと前から、鷹宮さまを見ていました」
麗香が暁の右手を抱き込む。その赤い唇が指先に触れた感触に暁は手を引こうとするが、意外にがっしりと握り込まれて簡単には振り払えない。
――いいですか、暁さま。女性にどんなことをされても決して手酷く扱ってはいけません。あなた、容赦ないんですから。
以前、千歳に刺された釘を思い出す。確かに、あのときはまだわからなかったけれど、今ならわかる。
暁が本気を出したら、女性の手などいとも容易く壊してしまえる、と。
「……すまないが」
なんとか説得しようと試みるが、言葉は苦手だった。何を言えば納得してもらえるか、見当もつかない。
できるだけ怖がらせないように、傷付けないように。相手は有力な家のご令嬢。
暁はこの学園の理事長の孫である。言わば、学園の生徒たちはすべてお客さま。ここで悪評が立てば、今後の経営に差し支える。
「どうして! ずっとお慕いしていました。初めて会ったときからずっと。わたくしは鷹宮さまが好きなんです」
麗香の思いがけない告白に、えっ、と無意識に口からこぼれた。
「だ、だから……わたくしは、鷹宮さまが好きなんです!」
「俺のことを?」
「はい!」
麗香が腕を伸ばして暁の首にしがみつこうとするのを阻止して、できるだけ優しく麗香の肩を掴む。
麗香はポロポロと大粒の涙を落としながら暁を見つめた。暁は困りきって横を向く。
「俺はてっきり……お父さんに籠絡してこいとでも言われたのかと」
「ち、ちがいます!」
麗香が必死に言い募る。
「わたくしが、あなたを好きだからこうして……気持ちを伝えたいと思って……!」
目算を誤った。家の事情なら話せばなんとかお互いに落とし所が見つけられるかと思ったが、この行動が感情に任せてのものであれば、多少傷つけてしまうのもやむを得ない。
「それならなおのこと、俺にはあやめがいるとわかっているだろう。先日だってちゃんと説明していたじゃないか」
「頭ではわかっていても、心は納得できていないんです!」
「納得できなくても、事実は変えられない」
麗香は唇を噛んだ。涙でメイクが落ちている。けれどその必死な顔が、暁には眩しく映った。
「どうしても……だめなのですね」
「ああ」
「……わかりました。でしたら、ここでしばし、お待ちください」
麗香は涙を拭って一歩距離を取った。小さなポーチから、銀色の鍵を取り出す。
「近衛……!」
「来ないで! もし近付いてきたら、わたくし、叫びますわ。鷹宮さまに乱暴されたと」
暁は足を止めた。それは、暁にとっても麗香にとっても、悪手だ。――最悪の展開にしかならない。
「……近衛さん。後夜祭だ。学園の生徒たちがみな待っている。おかしなことをするんじゃない」
宥めるように呼びかけてみるが、麗香は首を横に振った。
「……やめてください。わたくしの気持ちは変わらないわ」
「……だが」
「わたくしは、純粋にあなたをお慕いしてまいりました。でも、その気持ちはずっと届かない。だからせめて、今夜だけは、あなたがあやめさんの隣に立つのを見たくないの」
「待て……!」
がちゃん、と音を立てて、冷たいドアの向こう側で錠が下ろされた。




