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あやめの背中を見送ると、暁は手に残った本を見つめた。
あやめが好きだと言っていた本。
二学期が始まってから毎日忙しく立ち回り続け、気付けば一人で行動することに慣れ始めていた。こうして一人でいることがいつか当たり前になる。
あやめの日常は、暁が隣にいなくても変わらずに続いていた。むしろ、より一層賑やかになって、あやめの輝きは増すばかりだ。
どこにいても、何をしていても目を引く。あやめは光。
いつかあやめが暁のことを忘れる日が来ても、暁はこの学園での日々を生涯忘れないのだ。
生徒会室で窓の外を見るあやめも、隣の席で黒板を見るあやめも、廊下を一緒に歩くあやめも、競技場の外で暁を待つあやめも。
――あやめが好きだと言った本も。手の感触も。永遠に忘れることはできない。
何もかも忘れられない。
心臓が握り潰される痛みで、あやめが触れた胸元を抑えた。いつか二度とあやめが暁を振り返ることがなくなったとしても。
今、あやめは暁を見つめている。
本を元の場所へ戻しながら背表紙をなぞると、今の今までここにいたあやめの記憶が鮮やかに蘇る。
不安そうに揺れる瞳、赤く染まっていく耳。暁を見上げて、そして俯いたときに見えるつむじと、ほんのり甘い、桃のような香り。
ちゃんと見たら、わかる。あやめだって釈迦や仏陀じゃあるまいし、男――暁に近付かれれば、動揺するただの女の子だって。
その一端が垣間見えて、暁の心は浮き立つようだった。
口元が緩んだのを自覚して、片手で口を覆うと。
「ニヤニヤしちゃって」
暁の正面に並んでいた本が数冊抜き取られ、その向こうから静夜が顔を覗かせている。暁は表情を引き締めた。
「……鴉森」
「あんなふうにいじめたら、可哀想でしょ」
「……いじめてない」
「そう? きみだから安心して甘えていたのに、急にあんなふうに男出されたら、誰だって怯えるでしょ」
「俺がずっとそばにいられるなら、ずっとあやめに付き合ってやるつもりだった。だが、もうそうは言っていられない。俺がいなくなる以上、自分の身は自分で守れるようにならなければ」
「女王さまの自立を促す騎士ってわけだ。それが騎士のプライド?」
静夜が興味深げに揶揄うのに答えず、暁が棚の間から出ると、静夜もついて来た。静夜ももちろん、暁やあやめと同じく執事の衣裳を身に纏っている。
「今は当番の時間じゃないのか」
「ん、ああ、ちょっと変わってもらっちゃった」
「操ったな」
静夜は答えずに暁の進行方向を遮るように立ちはだかった。
「あやめさん……素敵な人だね」
暁は静夜を黙ったまま見据えた。静夜は意図の見えない瞳をしている。子どもの頃から、多少のことでは取り乱すことのない大人びた男で、それは鴉だからだと暁は思っていた。
「近付くなら本気で来いって、言ってたっけ」
「おまえは冗談と受け取っていた」
「撤回する。ちゃんと彼女に恋をしてみようと思うよ」
「できるのか? 鴉のおまえに」
静夜が肩を竦めた。
「どうかな。少なくとも、彼女には力は使わない。僕にできるだけ、大切にしてみるよ」
静夜はそれだけ言って、踵を返した。暁を置いて、図書室を出ていく。……あやめを追うつもりだろうか。
暁はひとりその場に立ち止まって、窓を見上げる。きっと暁は、あやめの全部を覚えている。ずっと。
秋の午前中の光が差し込む室内で、細かな塵がキラキラと輝いていた。
*
文化祭初日の午後。筋肉痛の手足をぎくしゃく動かしながら、宵は瑞葉、小夜とともに2-Aの執事喫茶にやってきていた。席について飲み物を注文すると、宵は瑞葉にしなだれかかる。
「やっと落ち着いたよぉぉ」
二学期が始まってからひと月半、ひたすら章典祭の準備に追われていた。開催期間中の対応はもちろんあるものの、午後になりやっと一段落ついたところだった。
「よしよし、よくがんばった。えらかったぞ~」
瑞葉が頭を撫でてくれる。小夜も宵の肩をぽんぽんした。
「小夜ちゃんも、がんばったね」
「うん」
今度は宵と瑞葉が小夜の頭を両側から撫でる。
近頃、小夜は三人でいるとごくごく大人しい。毒舌で弁は立つものの、本来は口数が多いタイプではないのかもしれない。
自分を守るために、強く見せるためにあの口調になったのかもしれない。宵は時々そう思う。
「おかえりなさいませ、お嬢様方」
あやめが盆に飲み物を持って三人の前に現れた。飲み物を確認しながら、それぞれの前に置いていく。三人はあやめを興味津々に見上げた。
「すっごく似合ってます、あやめ先輩!」
「さすが会長、着こなしてますね!」
「ふふふ、まあね。静夜くんも奥にいるよ、小夜ちゃん」
あやめがちらりとキッチンの方に視線をやると、聞いていたかのように静夜が姿を現した。宵たちの視線を受け、静夜が手を振りながら近付いてくる。が、その途中で別のテーブルの女子生徒に声を掛けられて囲まれる。
「鴉森先輩! 写真一緒に撮ってください!」
その一言をきっかけに、静夜の周囲はわらわらと人だかりとなった。
「うわぁ。学園の王子さまは伊達じゃない」
瑞葉の言葉に、小夜は呆れたように頬杖をついた。
「あんなののどこがいいんだか。顔だけじゃない」
「いや、あの顔は貴重でしょ。それだけで価値あるって。あんたの顔もよ」
瑞葉が小夜のほっぺをかるく摘まむと、小夜はまんざらでもない顔をしてからあやめに訊ねる。
「それよりあやめちゃん、暁くんは?」
宵と小夜がきょろきょろと教室内を見回した。教室内には見当たらない。休憩中だろうか。あやめは苦笑した。
「うーん。ちょっと機嫌悪くて」
「機嫌が悪い?」
宵と瑞葉があやめに向かって聞き返す。暁がご機嫌なところはあまり見たことがないけれど、感情で行動するような人ではないと思っていた。
「ああいうの、苦手だから」
「ああ……」
撮影会を繰り広げる静夜たちを振り返って、宵たちは納得した。
たしかに普段は近寄りがたい暁にも、この機に乗じて突撃しようとする生徒はいるかもしれない。燕尾服の執事姿であればなおのこと。
「生徒会室に避難してるって。行ったら会えるんじゃないかな?」
「どうせ自分のことだけじゃなく、あやめちゃんが囲まれてるのを見るのも嫌なんでしょ。暁くんも、ワガママなんだから」
小夜の悪口に、どの口で人のことを『ワガママ』と断じてる……? と思いながら、宵はそれもまた理解してしまう。
体育祭のときから、いや、その前からかもしれない。
暁が隣にいないあやめは、いつも誰かに囲まれていた。もちろん宵も忙しくしていたから仕方なかったけれど、あやめと一緒に過ごせない日々はほんの少し、寂しかった。
宵は立ち上がると、あやめの腕に自分の腕を絡めた。
「二学期が始まってから、ずっと忙しかったので……落ち着いたら、また生徒会のみんなで遊びに行きましょうね」
あやめが宵の髪を撫でる。
「うん。もちろん」




