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――素敵な恋をしてね。
母がそう言っていたのを思い出す。
宵はまだ、恋をしたことがない。
小学校入学以来、ずっと女の子しか周りにいなかったので。
宵にだって、テレビやSNSで見るアイドルや俳優をかっこいいなと思うことはある。
でも、思うだけ。
別にその人たちと恋をしたいとか、似た人を探したりはしない。
理想の恋って、たとえばどんな?
少女漫画で見るような、王子様みたいな目立つ子やワイルド系や執事系、ヤクザ系はどれもピンとこない。
少女漫画にさえときめかない宵には、このホールの中に好きになれそうな男の子がいるとはとても思えなかった。
プディングを食べ終えても瑞葉はなかなか戻ってこなかった。
どこかで誰かに話しかけられているのかもしれない。
宵は食べ終わったお皿を戻しに立ち上がった。
できるだけ端を選んで歩きながら、料理の置いてあるテーブルを回り、お皿を置いてからドリンクを探しつつ瑞葉の姿も同時に探して――いるときにふかふかのカーペットに足を取られた。
「わ……っ」
蹴躓いて前に倒れると、おでこを何かにぶつけた。
痛くはなく、温かい。人の背中だった。
「す、すみませ……!!」
振り返ったその顔を見上げて、宵は固まった。
ぶつかったその人は氷のような無表情でじっと宵を見下ろした。
「ふ……ふく、かいちょう……」
サーっと顔面から血の気が引いていく。宵は教室でクラスメイトたちが話していた話題を思い出していた。
「トップクラスの家柄」「別格」「ご本人も厳格」……。
これは、ヤバイのでは。不敬罪とか。え、ものすごく怒られたり……?
メデューサに睨まれたがごとく宵が固まっていると。
「きみ、大丈夫?」
副会長、鷹宮暁の向こう側から、ひょいと長い髪の女性が顔を覗かせた。
「わあ、綺麗な髪。ああ、ちょっと乱れちゃったね」
――会長、藤堂あやめだった。
あやめはその白魚のような手でぶつけて乱れてしまった宵の前髪をそっと撫でつける。
遠目でしか見たことのない生徒会長は、切れ長の大きな目と通った鼻筋が印象的だった。
灰色がかった黒水晶の瞳が宵の銀白色の髪を映していて、思わず見惚れる。
――――美!!!
「す、すみません……!!」
勢いよく頭を下げると頭上から落ち着いた低い声が問いかけてくる。
「こちらこそすまない。大事ないか?」
顔を上げると、あやめと同様に暁が宵を見下ろしていた。
「だだ、大丈夫です! よそ見していて、ぶつかってしまいました! 大変失礼しました!!」
まさかこんな至近距離で二人を見ることになるとは。
宵には手の届かない雲の上のひとたちだと思っていたのに。
両手を組み合わせてぎゅっと握る。
一人でこの二人の前に立つのは、なぜだか非常に、肝の冷える思いだった。
半ばおびえて俯く宵の顔を、安心させるようにあやめが覗き込んだ。
「そんなに怖がらないで。新入生よね、驚かせてごめんなさい。お名前は?」
ひとつしか違わないはずなのに、自分がとても幼く感じて、引いた血の気が一気に逆流して熱くなる。
やっとの思いで宵は顔を上げ、あやめを見た。
「し、白鷺、宵です……」
視線を左右にさまよわせながら答えると、当然のごとく暁がその名に反応した。
「白鷺? …………まさか、朝日さまの御息女か」
――朝日。その名が聞こえた瞬間、宵は小さく息を呑んだ。呼吸が止まる。宵は視線を、鷹宮暁へと向けた。
「――はい。朝日は母の名です」
「やはり……。お母上のことは聞き及んでいる。此度のこと、心よりお悔やみ申し上げる」
急に労わるような口調になった暁と、急速に温度が下がったように落ち着きを取り戻した宵に、あやめが交互に視線を送る。
「お心遣い、痛み入ります。……鷹宮、暁さま」
既視感の正体はこれだったか、と宵は思った。
鷹宮。
それは、宵にとって決して近くはないが、縁のある家の名だった。
*
――あなたは自由にしていていいのよ。
何度となく、なんとはなしに、母は時折そう言った。
それがどういう意味を持つのか、自由とは何のことを言っているのか、わからないまま宵は頷いた。
宵はいつだって箱庭の中で自由だったし、それは当たり前に在るものだと思っていた。
だから母が死んで、父を除いた家中の人間が宵に傅いたのを見て、初めて母の言った「自由」について考えた。
唐突に肩に手を置かれたと思ったら、清貴がすぐ後ろにいた。挨拶回りを終えて戻ってきたようだった。
「ご無沙汰しています、暁くん」
清貴に向かって暁が浅く一礼する。
「これは、白鷺の当主代理。御息女のご入学、おめでとうございます」
「ご丁寧にありがとうございます。先ほど、ご当主にご挨拶させてもらったよ。お父上はご健勝かな?」
鷹宮家の現当主は鷹宮早暁。
暁の祖父に当たる方であり、黎明学園の理事長だった。
その息子であり、暁の父である天明は学園の理事に名を連ねる。
「はい、本日は父は来ませんが、変わりなく過ごしています」
「そう。それにしても、すごい学校だね。僕は普通の学校に通っていたから。ところで、こちらのお嬢さんは?」
「彼女は生徒会長の藤堂あやめです」
「ああ、そうか。生徒会に入っているんだったね」
立ち話をしていると、いつの間にか遠巻きに人が集まり始めていて、宵は我に返った。
さきほどまで教室で一緒に盛り上がっていた女子生徒たちも、その中でひそひそと何かを話している。
いつの間にか、瑞葉もそこにいた。
――うちの在校生の中でもトップクラスの家柄のお方だよ。つまり、別格ってこと。
……もしかして、まずいことをしているのでは?
回りはじめた運命にまだ気づかないまま、こうして宵の高校生活はスタートした。
*
新しい学園の入学式へ向かう宵を乗せた車を白鷺邸の門前で見送ると、清貴は自室に戻り、仏壇の前に座って手を合わせた。
「今日から高校生ですよ、朝日さん。早いものだねぇ」
清貴の部屋からは散り際の葉桜が見える。
朝日が冬に去ってから、数か月。
まだまだ悲しみに襲われることも多いだろうに、宵は笑顔を絶やさない。
部屋のあちらこちらに置いてあるフォトフレームには、宵が生まれてすぐの頃から、初節句、七五三、入学式、運動会、卒業式と四季折々、数々の行事を映した写真が挟まれている。
そしてそのどれもに、宵と朝日が映っている。
宵は泣き顔や困り顔、悔しさを噛み締めるような表情のものも多くあるが、朝日はその隣でいつも日が差したような笑顔をしている。
宵が生まれた日のことを、清貴は昨日のことのように覚えている。
――朝日と初めて会った日のことも。
「……あの学園に行かせて、本当に良かったのかな」
ここのところずっと、そわそわと落ち着かない心地が何をしていてもつきまとう。
清貴は遠くに去り行く朝日と、ひとつ約束をした。
「きみが言うことだから、きっと間違いはないんだろうけど……」
仏壇に飾られた朝日の写真は、見慣れた眩しいもののまま、清貴に答えることはなかった。




