36
——転校生が来るらしい。
久しぶりに登校した学園はその噂で持ち切りだった。内部進学が多くを占める黎明学園で、外部からの編入生・転校生は貴重な存在だ。
初等部からの顔見知りが多く、刺激の少ない学生たちにとってそれはまさに恰好のイベントである。
けれど、あやめは冷めた目で見ていた。そもそもあやめは高校からの編入組だし、加えて転校生の正体が鴉森の兄妹だとすでに知っているから。会ったことはないけれど。
彼らが学園に来ることが、よいことなのかそうでないのかを、あやめは判別しかねている。
あやめは職員室に急いでいた。三階の教室を出て、廊下を歩く。
「あ、会長! おはよう」
「おはよう」
すれ違う同級生たちと挨拶を交わしながら、廊下の窓の外、晴天に目をやる。白むほど眩しい、まだまだ夏の気配。生地の薄い夏服のスカートが腿に触れる。麻混じりの素材はざらりとしていた。
今日は午前中に全学年全クラスで章典祭に向けてのクラス会が実施され、その後解散の予定となっている。
灼熱の太陽の下を帰宅すると思うと今から帰りたくない。生徒会の集まりも今日は特に予定していなかったが、日が傾くまで生徒会室でテスト勉強でもしようか。それとも暁の部活が終わるのを待って、車で送ってもらうか。
職員室は一階の最奥にある。生徒の使用する下駄箱とは真反対にあるため、職員室に近い校舎一番奥の階段はあまり人気が無い。
あやめは急いでいた。きょろきょろと周りを見回して誰もいないことを確認すると、手すりに手を掛ける。
そして、えい、と階段の手すりから体を宙に踊らせた。
あやめは失念していた。左右は確認したものの、下は見ていなかった。飛び降りた先に、男子生徒がいるのは、想定外。
「――!!」
「わぁっ、どいてどいて……っ!」
彼はどかなかった。どころか、動揺しながらも受け止めようと手を伸ばす。そして。
「わーーっ!」
広がろうとするスカートを片手で押さえながら、あやめは彼の上に降りる。しかなかった。着地点に彼がいたので。階段にお尻を着いた彼の膝に、ぎりぎり乗りかからないで足が付けた自分の運動神経に喝采を送りたい。
「…………」
「…………」
あまりの衝撃に二人で顔を見合わせて、しばらく二の句が継げなかった。あやめは彼の顔を見下ろす。学園では初めて見る顔だった。白いすべすべの肌に、真っ黒の瞳。左目の下に泣きぼくろがあった。切りそろえられたセンターパートの、艶のある前髪。耳でシルバーのリングピアスが幽かに光った。綺麗な男の子だ。――アイドルみたいな。
……それはいつかどこかで聞いた感想だな、とあやめは思った。
「大丈夫、ですか?」
男子生徒は体を起こしながらあやめをうかがう。
「あっ、それはこっちのセリフ! けがはない?」
あやめは立ち上がって手を差し出した。彼がその手を取ったので、立ち上がるのを手伝う。
「誰もいないと思って、油断しちゃった。驚かせてごめんね」
「いえ、僕は大丈夫ですけど……まさか、こんなところであなたに会えるとは」
彼は驚いた表情のまま、そう言った。背が高い。暁と同じくらいだろうか。一段上にいるあやめと目線の高さがほぼ同じ。彼はあやめをじっと見つめて、そして人懐こい笑顔を見せた。
「藤堂あやめさん……ですよね」
あやめは微笑み返す。
「そうだよ。鴉森のお兄さん。ようこそ黎明学園へ」
あやめは歓迎の意味を込めて胸に手を当てて礼をする。その頭上で、予鈴が鳴った。
「あ、まずい。急がなきゃ。とにかくごめんね。挨拶はまた後で」
――鴉森静夜をその場にひとり残して、あやめは手を振るとふたたび階段を一気に飛び降りた。そして、職員室まで走るのだった。
本鈴が鳴る前にあやめが教室に滑り込んだ。
「課題、提出できたか?」
隣の席の暁が話しかけてくる。暁とあやめは二年A組の所属だった。ちなみに、千歳と万理はC組である。
「うん。なんとか間に合ったよ」
本鈴が鳴ると同時に、担任の橘よう子が教室に入ってきた。いつものように教卓の前に立つと、日直が起立の号令をかける。よう子はおっとりとした人物で、夏休み明け直後の生徒たちがどんなに気怠そうな挨拶をしても、ニコニコしている。
「はい、皆さんおはようございます。夏休みは満喫できましたか?」
よう子と目が合った、座席の最前列に座る男子生徒が代表して夏の思い出を披露しようとする前に、その後ろに座る女子生徒がよう子ちゃん、と呼んだ。
「ねえそれより! 転校生が来るって本当?」
教室内はざわついている。あやめと暁はちらりと視線を合わせた。
「あらあら。もう知っているの? 早いわねぇ。じゃあ早速入ってもらいましょうか」
よう子が教卓側のスライドドアを開ける。入ってきた黒髪の男の子に、女子たちがドア側から奥に向かって順に、さざ波のような悲鳴を上げた。なにせ、彼はスタイルがいい。着崩された制服と洗練されたヘアスタイルをかきあげる仕種は物憂げな印象で、黎明学園にはあまりいないタイプだった。
「はいはい、皆さん落ち着いて」
よう子が黒板に名前を書く。
「今日からこのクラスで一緒に勉強することになった鴉森静夜くんです。じゃあ、一言どうぞ」
「鴉森静夜です。家の事情でこの学園に編入することになりました。鷹宮くんとは遠い親戚に当たります。どうぞよろしく」
短い自己紹介にも情報が凝縮されていて、クラス中が彼の一挙手一投足に集中しているのが分かる。暁にも視線が飛び火した。
「じゃあ、鴉森くんはそこの後ろの席に座ってね。今日は章典祭のクラスの出し物について話し合います」
興奮冷めやらない教室の中を静夜は歩き出す。性別関わらず彼に魅了されたように周囲の視線が静夜に集まったが、気にした様子もなく迷いなく進む。よう子に示された席とは違う方角に向かうと、彼はあやめの前でぴたりと足を止めた。机を撫でるように繊細な指先を置くと。
「よろしくね、あやめさん」
囁くようにそう言った。静夜の行動に、クラス中が息を呑む。あやめは静夜を見上げた。
――試してる。動揺させようとしてる? 今朝の仕返しかも。あやめは少しも視線を揺らさないように意識をして、返事をした。
「……もちろん。静夜くん」
あやめがそう言うと、静夜は微笑み、隣の席の暁にも視線をやってから自席へと進んでいった。当然、クラス中が秘めやかな三人の関係性に俄かに沸き立つのだった。
「……もう知り合ったのか?」
暁がわずかに眉を顰めながらあやめに囁いたので、あやめは小さく首を振った。
「いや? えっと、全然」
言えない。階段を飛んだら下にいた、だなんて。




