30
目を開けると、見たことのない庵の前に立っていた。
風はない。暑くも寒くもない。振り返ると、金の葦の原がどこまでも続いている。
オレンジの太陽が遠くに見える夕暮れの中。
ここはどこだろう。
宵は辺りを見回して、自分の姿を見下ろす。パジャマにカーディガン姿、そして素足。夜中にひとりでお社にいたはずなのに。――ここは、夢?
砂の地面を歩く。誰かいないかと、小さな庵を一周してみた。
庵にはひとの気配がない。今度は葦の草原に向かって歩いてみる。地平線までずっと同じ景色。右も左も、どこまでも続いている。地面は湿地だった。
いつの間にか、つま先からくるぶしまで泥で汚れている。
庵に戻り、ひとりで汚れた足を払って庵の縁側に座る。沈んでいく途中の太陽がただ目の前にある。
このまま、ずっとこうして陽が沈むのを眺めていたい……。
そう思った宵の頭上に、影ができた。
驚いて顔を上げると、宵の後ろから久遠が見下ろしていた。
「……けがをしたのか?」
宵が足に触れていたからか、久遠はそう言った。
「久遠さま!」
久遠がふと笑う。
「白鷺はいつも迂闊だ。罠にかかったり、転んだり、溺れかけたり。退屈しないな。どれ、見せてごらん」
久遠は隣にあぐらをかくと、宵の汚れた足に触れた。慌てて宵がその手を止める。
「け、けがなんてしてません。汚れちゃっただけで」
「そうか。それは良かった。それなら手拭いを持ってきてやろう」
立ち上がった久遠が部屋の中に入ると、しばらくして宣言通りに手拭いと、桶に入った水を持って戻ってきた。それを縁側に置いて、再び宵の隣に腰を下ろす。桶に手拭いを浸して絞り。
「ほら、足を」
久遠が手を差し出す。そこに、足を乗せろということだろうか。
「いっ、いいですいいです。そんなの自分でやりますから……!」
恐縮して宵が首と手を横に振る。けれど、久遠は構わずに宵の足を鷲掴んだ。
「きっ、きゃああ」
「おとなしくしておれ。いい子だから」
そんなことを言われても。子どものように足を膝に乗せられて、丁寧に拭われる。恥ずかしくて宵は手で顔を覆った。今さら、自分がパジャマ姿だということにも気付いてしまってひどく後悔した。
「湿地に降りたのか」
「う、はい。地面が湿ってるのに気が付かなくて」
「葦の群生地ぞ。湿っているに決まっておる」
そう言って穏やかに、声を立てて久遠が笑う。笑った顔が見たくて、宵は目から手をどけた。それに気付いた久遠が宵を見て、もう一度微笑む。それだけで心臓が跳ねた。
「そういう白鷺が、われは好きだ。無鉄砲で、行きたいところに行ってしまう」
恥ずかしげもなく、久遠が言う。その言葉は犬や猫に言うのと同じで、深い意味はない。それなのに、宵は嬉しくなってしまう。久遠にもらう言葉なら、なんでも嬉しい気がした。
「綺麗になったぞ」
「あ、ありがとうございます……」
やっと久遠の膝から足を下ろして正座する。なんとなく緊張するのに、深い安心感を知っている。不思議な気持ち。
「でも、どこへ行っても、必ずわれの元に戻ってくるな、そなたは」
久遠が甘い瞳で宵を見つめる。その髪と同じ銀色の瞳。
でも宵の白っぽい色とは違う、灰色がかった色。ペットを見るのと同じ目だと分かっていても、見つめられるだけで宵の鼓動は簡単に飛び跳ねて止まらない。
「……な、なかなか、沈まないですね、夕日」
会話を逸らそうと、宵は視線を太陽に向けた。
「あれは、われらの命だ」
その一言に、宵は視線を久遠に戻した。
「……え?」
「もうずっと昔に沈むはずだった。けれど、そなたらの封印が時を留めた。……ゆえに、沈まぬ。ここは永遠の黄昏の中」
ぎくりとした。封印。それって。
「……扉の……記憶の扉の、こと……?」
「そうだ」
心臓がまた跳ねる。今度は先ほどのとは違う意味で。
宵は無意識に胸に手を当てる。あの扉の封印は、神さまの命を繋いでいる。
よく呑み込めなくて、宵は久遠を食い入るように見つめた。久遠もまた、静かなまなざしで宵を見つめ返す。
「扉を封印し続けていたら、ずっとこのまま……?」
「そうだ」
「あの夕日が沈んでしまったら……久遠さまはどうなるんですか?」
「消える。われの記憶も、われも、この庵も、すべて」
ぞわりと背筋が凍った。
久遠は淡々としていて、そこに恐怖は感じられない。ただ凪いでいて、宵はその態度にさらに不安を募らせた。久遠は続ける。
「われらが消えても、何も変わらぬ。そなたの記憶からわれが消え、鳥たちに分けた力が消える。ただそれだけ」
久遠の平坦な説明は、まるで絵画の風景でも解説しているかのよう。
そこにあるのがさも自然なように。ときが過ぎることが自然なことであるのと、同じに。
何も変わらない。神さまが消えるだけ。宵に眠る力が、消えるだけ。それだけ。
鼻の奥がつんとして、じわりと涙が滲んで、そしてこぼれた。
悲しい。ただ悲しい。それは母がいなくなったときと同じ、喪失の予感が。別れが。二度と会えなくなることが。
「何を泣く? 泣くことなど、ひとつもない」
「さみしいからです、久遠さま。消えるなんて言わないで」
「神にも寿命がある。人より永いだけで。いずれ別れは来るものだ。何も悲しいことはない」
「いやです……、ずっと一緒にいたい」
こどものように頭を横に振る宵の頭を久遠がそっと撫でる。大きくて優しい手だ。久遠の着物から、沈丁花のような甘い花の香り。
久遠の肩に額を当てて、宵は泣いた。せっかく会えたのに、いずれ別れが来るなんて。そんなこと言わないで。
「……久遠さま。わたしは白鷺だけど、白鷺じゃありません。……宵といいます」
「……宵、か」
「はい。そう呼んでくれますか?」
久遠はその金色の瞳を瞬いた。
「……ふ。そなたはおもしろい」
「そうですか?」
「うん。そんなことを言ったのは、そなたが初めてだよ」
久遠が宵の髪をくしゃくしゃともてあそぶ。子ども扱いのような、特別扱いのような。そして、宵の下まぶたをそっと指でなぞって涙を拭った。
「もう泣くのはおやめ。もう少しだけ、ときはある。また、会いにおいで」
目が醒めて、宵は体を起こした。
ここは、お社の中。
ほの温かい玉の隣で、眠りこけていたようだった。涙が頬を伝って、そこで自分が泣いていたことに気が付く。
目をこすり、お社を出た。外はすっかり日が昇っていて、眩しい。そこに、登世子の宵を呼ぶ声が聞こえた。
「お嬢さまーっ」
探されている。宵は慌てて登世子の方に向かった。
「ごめんなさい、松原さん。お散歩してて」
「まあまあ、そんな恰好で。風邪を引きますよ……あら」
登世子が宵の顔を覗き込んで心配そうに顔を顰めた。
「目が腫れてますよ。清貴さまと喧嘩でも? おかわいそうに」
そう言って登世子が抱きしめてくれる。人のぬくもりがやさしくて、宵の瞳にまた涙が浮かんだ。
――封印がなくなれば、久遠が消える。
でも小夜の言葉も引っかかる。封印には代償がある――それがなんなのか、宵にはまだわからないけれど、それは白鷺も同じようだった。
宵だけなら、いくらでも代償を支払うから、久遠さまの太陽を沈ませないでと願うけれど。どうしたらいいかわからない。
久遠は、陽が沈むのを待っているような、そんな雰囲気だった。でも宵は、久遠と永遠のお別れだなんていやだった。どうしたら、久遠とずっと一緒にいられるだろう。
「あらあら、どうしたんですか?」
泣き止まない宵に、登世子はよしよしとずっと背中をさすってくれた。こんなに泣いたのは、母がいなくなったあの日以来だった。




