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「……」
「……」
「……失礼。鴉森さまのおっしゃる通りです。私には娘を守る力がありません。ですから、ここに預けたのです」
おお、こわい。と四更が着物の袖で口元を隠す。早暁が腕を組んで清貴を見るが、清貴は引かない。一度吹き出た熱はすぐには収まらない。
「鷹宮にはわかっていたはずです。見えていたでしょう、このことは。鴉森さまも、御子息の思想には気づいていた」
清貴の拳が震える。
「……こうなってしまえば、白鷺が担う役割がもっとも大きくなることはわかっていました。だからできるだけ、我が家もここには関わらないようにしてきました。けれど関わってしまった以上、あの子がその良心から放っておけないことも、あの子を止める力が私にないことも。だから、あれほど……!」
学園に入学をさせよう、と言ったのは朝日だった。ここなら清貴ひとりで背負わなくても、他の二家の助けを借りられるかもしれないから、と。
こうなるとわかっていたなら、いくらでも反対したのに。清貴は後悔に押しつぶされないように耐える。
「……私たちにもわからないことはある。鳥が関わることは、夢見には出ないのだ」
清貴を気遣うように、静かに早暁が言った。
「私たちも、子どもが憎いわけではない。できるだけ、あの子たちには私たちのような悲しい思いはさせたくないのだ。鴉の子たちも手元にいれば、やりようはあろう。……よいな、鴉の」
「まあ、仕方あるまい。我もあれらにはほとほと手を焼いてきたのでの。たまには首輪をつけられるのもよろしかろ」
天明が清貴のぶつけた手を掴んだ。赤く腫れあがっている。大理石のテーブルを思いきり叩けばそうもなるだろう。
「今回の件で封印が弱まったのは事実。近く、決定は下さねばならん。何かわかったら報告を。よいな」
そうして、数十年ぶりの三家会議はお開きとなった。
「おーいたそ」
「……」
四更は早々に帰っていき、早暁も会食があると出ていった理事長室。
保健室から取ってきた湿布と包帯で天明は清貴の手当をしていた。
「意外と器用なんですね」
「うちは何でも自分でやらないと、誰も助けてくれないからな」
「息子さんがあんなにしっかりしてるのも、納得です」
天明がちらりと清貴を見る。四十を越えたところ、と聞いているが、若い頃から印象があまり変わらない。そういえば、朝日も随分若々しかった。
「そっちの娘はずいぶん甘やかされているようだな」
「はは、耳が痛い」
「記憶はまだないのか」
短い問いに清貴は少し自嘲気味に答えた。
「まだ十五ですよ。あんな小さな体に、そんな大きいものは抱えられない」
「だが、もう朝日はいないんだぞ」
少しきつい言い方になってしまった。けれどそれは事実。白鷺がいないと成り立たなくなってしまう。
「……十月に、継承の儀を執り行います」
「そうか」
――神在月にお出ましを。清貴は朝日の葬儀で島根の宗主がそう宵に告げたのを思い出していた。
「僕はあの子に、背負わせたくなんてない。できるだけ、普通の女の子として生きさせてやりたいんです」
結局、清貴は部外者だった。娘に背負わせるもののひとかけらさえ、清貴には成り代わってあげられない。遣る瀬無くて自分に虫唾が走る。包帯を巻いたばかりの拳をまた膝にぶつける清貴を、天明は黙って見ていた。
まあ、それは無理だろうな。とは口に出さずに。
宵が眠りについて、まる一日が経った。
清貴は宵の勉強机に仕事の原稿と資料を広げ、いつ宵が起きてもいいようにしていた。家政婦が作ってくれたおにぎりを食べつつ、目覚めを待つ。
待つのは慣れている。いつだって清貴は朝日を待っていた。だから、大丈夫。待てば、朝日は清貴の手に舞い降りてきた。天女のように。
パジャマに着せ替えられた宵の寝姿は、静謐そのもの。清貴から見れば、まだあどけない、赤子の頃と同じ寝顔。ほんの少し前まで、小さな小さな椛のような手で清貴の指を握っていたのに。いつの間に、こんなに大きくなってしまったのだろう。後悔ばかりが先に立つ。
おにぎりを食べ終え、一度顔を洗ってこようと立ち上がったそのとき、宵が身じろぎをした。目が覚めそうか、と清貴は宵のそばに戻る。宵は何やらむにゃむにゃ言っていて、寝言を聞き取ろうと耳を寄せた。
「かみ、さま……」
――神さま。
清貴が静かに手で自分の口を覆った。朝日が言っていたのと同じ温度で、同じ言葉が娘の口からついて出た。記憶が、宵の中にすでにあるのだろうか?
まだ夢うつつで瞼が開ききらない宵から顔を背けて、清貴は部屋を出た。継承の儀で、すべての記憶が当代の白鷺に引き継がれる。そう聞かされていたのに。どうして。
廊下の床板が軋む音で宵は目を覚ました。見慣れた部屋。自分のパジャマ。ここは。
「……パパ?」
夢か、うつつか。ここが本当に自室なのか、それともまだ狭間を漂っているのか判別がつかない。むくりと起き上がる。
水底に沈んでいくようだった体は、今は羽根のように軽い。
手をグーパーグーパーして感覚を確かめる。そうしている間に、お腹が空いたと思って、やっとここが自室なのだと実感した。
「ま、松原さぁん」
襖を開けて台所に向かって呼びかける。すると、廊下の向こうにひょこりと中年の女性が顔を出した。
松原登世子。
宵が小さい頃からお世話になっているお手伝いさんだ。
「あら、お嬢さま! お目覚めになったんですね、良かった。清貴さまは?」
「え?」
「お嬢さまが目覚めたときにさみしくないように、ってここでお仕事されてたんです。お手洗いかしら」
「それより、お腹が空いちゃって。何かある?」
「もちろんありますよ。でも丸一日眠ってらっしゃったから、胃に優しい雑炊をお作りしましょうか」
登世子はそう言って台所へ舞い戻っていった。登世子を見るとほっとする。
これが宵の日常だから。日常。
「……あれぇ? わたし、なんでここにいるんだっけ……合宿に行ったんじゃ」
そこまでつぶやいて、合宿の記憶が嵐のように宵の頭の中を駆け巡った。
みんなで楽しく会話したバス、いつもよりさらにおいしかった桜餅。文化祭の会議をして、千歳と万理と一緒に夜のおやつ。心配そうなあやめ。沼地の鷺たち。山肌を照らす朝の光。暁との会話。
そして、無数の鷹と、扉。
力を使ったんだ。だから、眠っちゃった。
驚かせたかもしれない。暁はともかく、あやめは確実に。
気味悪がられていないだろうか。ネガティブに想像して、宵は首を振る。
後悔はしない。自分の選択だから。今さらながらに心臓が飛び出してしまいそうなほどどきどきしてくる。ほとんど考える暇なんてなく、使ってしまった。宵の力。
ママに怒られちゃうかな。いや、パパに。でも、あのときはどうしようもなかったときちんと説明したら、きっとわかってくれるはず。
それに、神さま。
――宵は部屋を飛び出した。
裸足のまま、つっかけに足を入れると庭を突っ切る。白鷺の本邸の奥、小さなお社があった。その中央に鎮座する、ふたつの小さな玉。
走るとはぁはぁと息切れした。そんなに距離はないはずなのに。宵はそろりと中に入る。
小さい頃からその存在は知っていた。
母に「これは絶対に触ってはいけない」と厳しく言われていたから、何か大切なものなんだろう、程度の認識だった。宵は漆の器に収められたそれを手に取った。
玉の中央にそれぞれ<久遠><玉響>と彫ってあった。
触れるとほんのり温かい。東西に小さな明かりとりはあるものの、部屋の中は薄暗く、普通なら視界はそれほど利かないだろう。でも宵にははっきりと見えている。
夢の中で髪に触れられた。あれは記憶じゃない。過去でもない。
「……こんなところにいらしたんですね。久遠さま。ずっと、そばにいてくださったの」
不思議な感覚だけれど、あの膝の感触は夢じゃない。……夢なのだけれど。
でもたしかに、宵は彼に触れた。神さまはずっとここにいた。
ずっと満たされていると思っていた心に、本当は穴が空いていて、やっとその穴に気が付いたみたい。
その穴が埋まっていく。満たされるとは、こういうこと?
「会いたかったです……久遠さま」
小さく小さくつぶやいた。玉はじんわりと熱を帯びる。大好きだった――今も。白鷺はずっと、この方に恋をしていた。
なぜか涙が出た。会えてうれしかったはずなのに、どうしても切なくて苦しい。十五年間生きてきて、こんな気持ちは初めてだった。




