23
ベッドに宵を寝かせ、千歳を残して部屋を出た暁とあやめはそのまま外に出た。
辺りにはまだ早い時間の澄んだ空気が残っている。
先ほどの異変がまるで嘘のよう。
陽が差し込む林道を昨夜のように二人で歩く。
「びっくりしたぁ。いろいろびっくりして、何から話していいか、わかんないね」
「俺も混乱してる……。初めて見た、白鷺の能力。時間を止める力……いや、時間の保存か? 正確にはわからないが」
「暁が言ってた強いって、こういうことだったんだね」
「ああ。白鷺は三家でも抜きん出て力が強い。俺にも信じられない。あんなに大きな力を使ったら、一体どれほど消耗するものか、俺にも想像がつかない」
暁は小柄な体でぱくぱくと日頃からよく食べる宵を想像した。
暁は食欲増加だけで他にはほとんど影響は出ないが、宵はそれに加えて睡眠も要するようだ。
「おまえは大丈夫なのか。どこにも影響はないか?」
前を歩くあやめの腕に手を伸ばして、立ち止まる。
まじまじと顔や手を検分しようとすると、その手を振り払われた。
「ちょ……それはこっちのセリフ! 暁は? 我慢してない?」
今度はあやめが両手を伸ばした。
頬を掌で包み込まれ、あやめの白い顔が近付いてくる。
「あや……」
次の瞬間、パチン、と両手で頬をはたかれた。
「……」
「ねえ、私に隠してたでしょ。なんかおかしいなって、気付いてたんだよね?」
「……」
暁はゆっくりと視線を逸らした。
……怒ってる。あやめが。めずらしく。
「状況が把握できないと、きみに何か起きたときに対処しようがないでしょ?! 私じゃ頼りにならないと思ってるの?」
「そ、そんなことは」
「たしかに、私には宵ちゃんみたいな力はないけど! 何かあったときに、知ってると知らないじゃ雲泥の差でしょうが!」
「す、すまない」
もう、とあやめが腕組みをした。
「全部を言えなんて、言わないから。起きたこと、起きてることはちゃんと教えて。じゃなきゃ助けられない」
「……はい」
「宵ちゃんのあの姿を見てれば、鳥の力が万能じゃないことくらいわかるよ。だから、使わせたくない。知っていれば先回りできることもきっとある。暁も宵ちゃんも、私が守る」
あやめが左手を差し出した。暁はその左手を見つめる。
「誓って」
じわりと暁の心にしみこむ、あやめの言葉。
どうしてあやめはこんなに強いんだろう。
最初から、あやめは強い人だった。
暁はそのことを、知っていたのに。
己の弱さゆえ、あやめを遠ざける。
それがあやめの一番つらいことと知っていても。
暁は片膝をついて、その左手を取った。
額に当てて、誓いを立てる。
「……、……できるだけ、知りえた情報は共有する。隠し事は、しない。……できるだけ」
「努力目標過ぎるよ! ……まあ、いいでしょう」
暁はそのまま、あやめの左手を頬に当てた。
頬ずりするように、その冷えたすべらかな手の感触を楽しむ。
あやめは暁にされるがまま、その様子を愛おしそうに見ていた。
*
からだが重い。指先ひとつも動かせない。
全身が筋肉痛になったみたい。何も聞こえない。
どこからかいい匂いがする。
沈丁花の甘く濃密な匂い。
前髪をそっと撫でられる感触があって、宵はあやめが撫でてくれているのかと思った。
もしくは、母が。
重い瞼をそっと開ける。
視力が戻ってくるのに時間を要したが、やっと見えたときには、宵のすぐそばにいるのがあやめでも母でもないことにはすぐに気付いた。
そのひとは、金色のゆたかな長い髪、そして銀の着物をまとっていた。
宵を膝枕に寝かせ、その大きな手で前髪を撫でる。
慈しむように。
――このひとは。
「……かみ、さま……?」
「無茶をしたね、鷺の子や。こんなになって」
着物の下で、広くて厚みのある胸板がゆったりと呼吸をしている。
そうだ、神さまはいつも低く響く声で、その温容な微笑みをわたしに向けていた。
――”わたし”に。
「……平気です、このくらい」
顔を上げようとした宵の額に金色の神さまがそっと指先を乗せた。
「もう少し、お眠り。目醒めたらきっと、元気になっていよう」
いやです、もう少し、あなたと話をしていたいの。
やさしい声をもっと聴かせてほしいのに。
からだは湖の底に向かってどこまでも沈んでいくように、水がまとわりついて宵を放さない。
そして手足の感覚も、甘い匂いも、喉の乾きもひとつずつ忘れていき――。
額の指の感触もいつしか薄れて、消えた。
*
昼下がりに空を飛ぶのは好きだったし、宵には水辺に浮き上がる魚を取って食べ、朝未だきに眠る。
毎日その繰り返し。
当たり前だけれど、そこに何の疑問も、疑問だなんて概念も何も知らずにただ生きて、死んでいく。
それがわたしだった。
でもある日、空を飛んでいると、地上で何かが光った。
興味をそそられて降り立ち、辺りをちょこちょこと歩き回って光源を探した。
そして突然、脚にビリリと今まで経験したことのない何かが触れた。
銀色のそれが、脚を噛み千切るように挟まっていたのだ。
あまりに驚いたのと、痛みとでわたしは叫んだ。
とにかく大きな声で、翼をばたつかせながら。
どうしたらこの痛みが消えるのか、これは何なのか、何が自分に起きているのかもすべて混乱の中。
そうして騒ぎ続けていたけれど、どのくらい経った頃だろうか、ようやく落ち着きを取り戻した頃にはすっかり日が暮れていた。
脚の痛みはどうすることもできず、その場に横たわってじっとしていた。
徐々にお腹も空いてきたけれど、ずっと体を動かしていたからもう疲れ切っていた。
水辺に飛んでも、きっと脚が痛くて立てやしない。
このままここにいたら、いつか痛くなくなるかな?
そんなふうに目を閉じて夜を明かした。
「おや、こんなところに白鷺が」
聞いたことのない鳴き声が聞こえて、わたしは目を開けた。
目の前で、白い大きな何かがわたしを覗き込んでいた。
驚いて、体を起こして騒ぎ立てる。
後ずさろうにも、やはり脚が痛くてろくに動くことができなかった。
「怪我をしているのか。ああ、小動物用の罠にかかってしまったんだね。かわいそうに」
その大きな何かが、痛むわたしの脚に触れた。
不思議と怖くなくなってされるがままになっていると、その大きな何かが、脚を挟んでいる銀色のものを取り去った。
不快感は消えたけれど、脚の痛みは治らない。
大きな何かがそっとわたしの羽根に触れる。
「うちにおいで。手当してあげよう」
わたしは温かいからだに抱き上げられて、どこかに連れていかれた。
大きな屋根の、大きな巣。
水辺もあったが、そこに魚はいないようだった。
大きな何かがわたしを下ろし、赤くなった脚に小瓶から取り出した黄色の何かをつけ、白くて柔らかい何かを巻いた。
その大きな何かの翼の先はわたしのとは違って五又に分かれていて、とても便利そうだった。
「これで大丈夫。傷が癒えるまではここにいるといい。白鷺の子や」
大きな何かがわたしの頭を撫でた。
黒い目がわたしを見ている。わたしも大きな何かを見つめた。
「わたしは久遠。この地の神だよ」
大きな何かがそう言った。
くおん。かみ。
この大きな何かは、かみさまと言うらしい。
神さまはわたしを地面に下ろし、わたしがこの巣の周りをちょこちょこと歩き回るのを興味深そうに見ていた。
わたしはお腹が空いていて、何かないかと水辺に近寄り中を覗き込んだ。
水面に映ったのは、白い翼、長い嘴と、その上の小さな金色の目。
わたしはこのとき、自分が白く綺麗な鳥だということを、はじめて知った。




